1. 会議録本文
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000・会議録情報
昭和二十一年八月二十七日(火曜日)午前十時二十三分開議
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議事日程 第二十四號
昭和二十一年八月二十七日
午前十時開議
第一 帝國憲法改正案(衆議院送付) 第一讀會(前會の續)
第二 電氣事業法の一部を改正する法律案(政府提出)
第一讀會の續(委員長報告)
第三 所得税法の一部を改正する等の法律案(政府提出、衆議院送付) 第一讀會の續(委員長報告)
第四 臨時租税措置法を改正する法律案(政府提出、衆議院送付)
第一讀會の續(委員長報告)
第五 地方税法及び地方分與税法の一部を改正する法律案(政府提出、衆議院送付)
第一讀會の續(委員長報告)
第六 石炭及コークス配給統制法の一部を改正する法律案(政府提出)
第一讀會の續(委員長報告)
━━━━━━━━━━━━━発言のURL:https://teikokugikai-i.ndl.go.jp/simple/detail?minId=009003242X02419460827&spkNum=0
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001・徳川家正
○議長(公爵徳川家正君) 諸般の報告は御異議がなければ朗讀を省略致します発言のURL:https://teikokugikai-i.ndl.go.jp/simple/detail?minId=009003242X02419460827&spkNum=1
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002・会議録情報2
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〔參照〕
昨二十六日委員長より豫算委員第三分科擔當委員伯爵大木喜福君を第五分科兼務委員に選定したる旨の報告書を提出せり
同日委員長より左の報告書を提出せり
所得税法の一部を改正する等の法律案可決報告書
臨時租税措置法を改正する法律案可決報告書
地方税法及び地方分與税法の一部を改正する法律案可決報告書
本日第七部に於て豫算委員川村竹治君の補闕選擧を行ひしに小山完吾君當選せり
――――◇―――――発言のURL:https://teikokugikai-i.ndl.go.jp/simple/detail?minId=009003242X02419460827&spkNum=2
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003・徳川家正
○議長(公爵徳川家正君) 是より本日の會議を開きます、日程第一、帝國憲法改正案、衆議院送付、第一讀會、前會の續、是より昨日に引續き質疑を許可致します、南原繁君
〔南原繁君登壇〕発言のURL:https://teikokugikai-i.ndl.go.jp/simple/detail?minId=009003242X02419460827&spkNum=3
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004・南原繁
○南原繁君 今囘の憲法改正事業は、祖國敗殘の後を承けまして、自らの過誤を清算して、我が國が將來完全なる獨立國として立ち得るや否やの試金石であると考へるのであります、是迄我が國の歴史に於きまして、之が審議に當りまする今期議會位重大なる使命を帶びたものは曾てなかつたでありませう、併しそれにも勝つて、此の草案の作成の任に專ら當り來つた政府の責務の極めて重大なるを思ふ者であります、何故なれば今囘の憲法改正事業の成否は、一に懸つて此の草案の作成にあつたと考へるからであります、此の意味に於きまして、政府が憲法改正に際して當初から如何なる根本方針と態度を以て臨まれたか、又此の草案が如何なる成立過程を辿つたかと云ふことを、私は極めて重大視する者であります、斯かる見地から私は草案自體の質疑に入るに先立ちまして、先づ此の問題に付きまして、相關聯した數箇の點に付て御尋を申したいのであります、それ等に付きましては前首相、幣原國務大臣竝に吉田總理大臣からそれぞれ御答辯を煩したいのであります、抑抑日本が將來國際社會に伍しまして恥づるなき獨立國となる爲には、何よりも正義と、自由が人類の至實であることを改めて認識致しまして、外は世界に向つて最早戰端を開かず、却て人類の間に實現せらるべき高貴なる理想を自覺した平和的國家の建設であります、又内に向ひましては、最早人の人に對する壓迫と隸屬を知らず、再び大權の蔭に隱れて人間の自由の權利を抑壓する危險のない國民共同の民主國家の建設でなければなりませぬ、此の事は我が國が受諾致しましたる「ポツダム」宣言の結果からさうであるばかりでなくして、實は日本が自らの更生の爲に進んで斷行しなければならぬ所の問題であります、而して其の事は外ならぬ國家の基本法たる憲法に向つて、根本的な改革を加へなければならぬと云ふ問題であります、從つて之が解決は單に法律解釋論的な立場に囚はれることなく、世界の政治的動向と、時代の意義を能く洞察致しまして、之に適應したものでなければなりませぬ、然るに當時幣原首相は此の問題に關しまして、果して問題の重要性を認識されて、之に相應しき根本的な對策を御持になつて居つたかどうかと云ふことを先づ第一に御伺ひ致したいのであります、と申しますのは、昨年十月松本國務相を中心と致しまして、憲法問題調査委員會なるものが設立致されました、けれども何故か殆ど最後に至る迄、同國務相の一つの試案として之を取扱つて、而も其の内容は憲法一條から四條に至る所謂天皇統治の大權に付ては變更のない旨を、昨年十二月の衆議院の豫算總會に於て當局の發表せられた答辯、又越えて本年二月上旬新聞に發表せられた當局の談話に依つて、我々は之を知るのであります、心ある人々は斯樣な政府の消極的であり、寧ろ現状維持的であつて、而も荏苒時を過しつつあることを國家の爲に憂へ來つたのであります、然るに本年の三月六日突如として現在の政府草案の要綱が發表されたのであります、此の日位大きなる衝動を國民に與へたことは、昨年終戰の詔書渙發以來此の一年なかつたことであると申して差支ないでありませう、それは其の内容がそれ迄各政黨竝に各種研究團體の發表致しましたる各各の憲法改正案とも根本的な懸隔があつたばかりでなしに、何よりも政府自らが調査し審議し來つたこととは殆ど二つの極の間の懸隔が其處に認められるからであります、茲に第二に御尋ね致したいのは、憲法改正と云ふ如き重大なる案件に付きまして、斯樣な急激なる變化、恐らくは同一政府の下では執り得べからざる政策の根本的轉囘であります、それがどうして左樣になつたかと云ふことであります、國民は今日迄之を不可解として、尚疑惑の中にあるのであります、吉田總理大臣は之を御説明になりまして、國際事情の急激なる變化に基くと言つて居られます、併しながら衆議院に於て首相の左樣に御答辯爲すつて居るが如きものと致しまするなれば、それは豫見し得ることである、それをも考慮して、初めから政府は確乎たる之に向つての方策を講じて居るべき筈のものであります、それなのに、失禮ながら我が國外交界の二大長老であられる御兩相が此のことを認識されなかつた、而して事態茲に至つたとするなれば、それは事を餘りに安易に御考になつた爲で、端的に申しまして、それはそれ迄の長い間の政府の消極的現状維持的態度が根本の原因をなしたのではないかと云ふことを、私は御尋ね申したいのであります、そこには實は政府の責任の問題もおありになつたのではないかと云ふことも考へられます、是等の點に付きまして前首相幣原國務大臣に御辯明を煩したいのでございます、次に第三に、草案の内容の可否は姑く別と致しまして、該草案の制定方法の非民主的であつたと云ふことに付てであります、凡そ新憲法が眞に民主的であるが爲には、獨り其の内容に於てのみならず、其の制定方法に於て、正にそれに相應しく民意に基いた公明なる、自由の討議を前提とすべきであります、さうして其のことは獨り議會に於ける決定に於てのみならず、草案自體の作成の過程に於て、正にさうでなければならぬと存ずるのでありまする、此の意味に於きまして、本來改正案自體が國民の選んだ代表者たる議會に於て作成されるべきことは、一つの理想と考へられるのであります、併し政府は憲法の法的繼續性を保つが爲に、現行憲法の七十三條に依つて此の度の改正をして居られます、それは私は認めます、然らば尠くとも斯かる議會人を中心と致しまして、それに學者、經驗家を加へまして、日本の國の有らゆる角度からの意思と慧智を結集したる憲法審議會を作られると云ふことは、是迄の日本の重要なる法案に付てさへ採られ來つた所の方法であつたのであります、然るに之をもせられないで、國民の知らない間に改正案が作成されまして、それが一に政府の決定案として御發表になつたと云ふことは、どう云ふ理由に基くのでありまするか、それでは如何にも獨斷的で、又しても上より與へられたる憲法と云ふ感があるのであります、一體政府は本案通過に對しまして、何故左樣に性急であられるのか、此の問題に付きましては昨日總理大臣からの御答辯に依りまして、内外の情勢上速かに之を作成する必要があつたと云ふことを御述になりました、私は其のことを了解致します、併し尠くとも、然らば今申上げました憲法審議會の外に、今期の此の議會とは別に、草案に對する十分の審議、討議を盡すが爲に、此の秋あたりに於て特別に其の爲の憲法會議を御開になる用意は何故なかつたのであるか、それさへなかつたのであるかどうか、現に六月下旬に召集されました今期議會に於て、最初は會期僅か四十日、其の間に諸法案斯くの如く錯綜して居りまする中に憲法を織込んで、是で總てを議了し去らうとせられたことは、それ程性急なのはどう云ふ理由に依るのであるか、衆議院の憲法審議の期間だけでも二箇月を要しました、政府は一再ならず大幅の會期を延長せざるを得なくなつたと云ふこと自體、そこに政府の何かの齟齬はなかつたか、さう云ふことに對しまして國民を納得せしむるだけの御答辯を、吉田總理大臣に御願ひ申上げたいのであります、更に第四は、私の質疑は、三月六日彼の憲法草案要綱發表の際に、當時の幣原總理大臣が謹話を發表されました其の中に、此の草案は聯合軍司令部との緊密なる連絡の下に作成されたと云ふことを御發表になつたことに關してであります、此のことは恰も日を同じう致しまして發表せられました聯合軍最高司令官の聲明に依りまして、それが我が當局と「聯合軍最高司令部關係當局との苦心に滿ちた研究と、幾囘となき會談」に依つて行はれたものであると云ふことを、我々は了解致すのでございます、我が國の運命を決する重大なる憲法改正の起草が、最後の段階に至りまして斯くの如き結果にならざるを得なかつたと云ふことに對しまして、政府は如何樣に御考になるのでありまするか、其の間に於きまする政府の御苦心に付きましては十分察知は致しするけれども、私共は日本政府が此の憲法の改正に對して、最後迄自主自律的に自らの責任を以て之を決行することの出來なかつたと云ふことを極めて遺憾に感じ、國民の不幸、國民の恥辱とさへ私共は感じて居るのであります、斯くの如く致しましては、憲法は獨り上より與へられたと云ふだけでなしに、或は外より與へられたのではないかと云ふ印象を與へる危險はないかと云ふことであります、現に巷間左樣な臆説も行はれて居ると云ふことは蔽ふべからざる事實であります、若し是が國民の相當の廣い範圍に廣まるなれば、是は大事な問題であります、新憲法の安定性の上から申して極めて憂慮すべき問題があると考へまするが、政府の御所感はどうでありますか、又政府は斯かる印象と臆測とを拂拭し去るが爲に、如何なる確信と、又如何なる方法とを以て之に御臨になつて居るかと云ふことを、吉田總理大臣に御伺ひ申上げたいのであります、又他面斯くの如き結果になりましたと云ふことに付て、聯合國の名譽を傷つける虞はないかと云ふことを考へるのであります、私共は「ポツダム」宣言附屬文書に依りまして、聯合軍の進駐して居る期間、帝國政府は其の最高司令官の下に從屬して居ると云ふことを承知して居ります、又實際それに依りまして幾多の良き改革が、本來我々の手に依つて爲すべき良き改革がなされつつあることも存じて居ります、併しながら此の同じ文書に依りまして又私共は知つて居ります、即ち日本國の最終政治形態は、日本國民の自由に表明したる意思に依つて決定すると云ふことを書かれてありまする、從つて少くとも此の問題に關しましては、政府の草案作成に當りましても、右文書の趣旨と精神に從ひまして、假令國際情勢がどうでありませうとも、其の變化の一つ々々に左右せらるることなくして、日本としましては「ポツダム」宣言の要求に忠實にして、初めから確乎たる方針を以て自主自律的に、政府の運命を賭けても之を斷行すべき筈でなかつたかと考へるのであります、此の「ポツダム」附屬文書との關係を如何やうに御解釋になるのでありますか、是は吉田總理大臣に御尋ね申上げたいのであります、或は言ふかも知れませぬ、それは單なる一つの草案に過ぎないと、併しながら私は此の點に關して聯合軍最高司令官に愬へたいのであります、斯くの如くして作成され、而も最高司令官の全面的支持と承認の下に發表された草案がどれだけ大なる影響と結果を持つて居るかと云ふことは、「マッカーサー」元帥の御想像にならぬことでありませう、其のことは彼の要綱の發表されました翌日から、それ迄に作成發表された各政黨の草案が影を潛め去つて、各政黨擧つて此の原案に贊成するに至つたと云ふ事實を見ても分るのであります、斯樣なことは「アメリカ」のやうな「デモクラシー」の發達した國では或はないかも知れませぬけれども、是が日本の現状でございます、我が國は今憲法改正を通しまして、民主主義の訓練を受けつつあるのであります、處が最近七月二十一日、丁度此の議會が始まりました劈頭に當りまして、聯合軍最高司令官が再び聲明を發表せられました、其の中に、斯かる憲章の採擇が日本國民の自由な意思の表明たるを示すべきことが絶對に必要である、それを草案通りに採擇するか、修正を加へるか、或は否決するか、即ち其の形式と内容を決定するのは、一に日本國民が正當に選出したる議員の手に依つて行ふべきであると發表せられました、是は正に斯くあるべきことと存じまする、然るに丁度此の朝、當貴族院に於きまして吉田總理大臣は、特に我々の注意を喚起されまして、憲法草案に對する論議は自由であるけれども、國際關係を考慮せよと云ふ要請がありました、此のことは今期の貴衆兩院を通じての憲法審議の根本前提になつて居ることと思ひまする、以上のやうな首相の言明は、「マッカーサー」元帥の聲明の趣旨と背反するものがあるのではないか、寧ろ日本の總理大臣は元帥の公明なる態度に應へられて、同じやうなことを我々議會に向つて要望し激勵せらるべき筈ではなかつたかと云ふことを御尋ね申したいのであります、政府の隠れ場は又しても國際情勢であります、併しながら日本と致しましては、「ポツダム」宣言と其の執行に當つて居られる最高司令官の聲明とに對して、更には其の根本に於て自由と眞理とに對して忠實なる外に、何を迷ひ何を疑ふ必要がありまするか、我々は固より敗戰國と致しまして、謙虚でありますると同時に、大膽に眞理を眞理とし、之を自由に主張し、論議し、愬へて然るべきではありませぬか、是が「デモクラシー」の根本精神でもありまする、聯合國が日本に要求して居りまするのは、實にそれ以外のものではない筈であります、將來日本が國際場裡に伍して、列國の信頼を贏て、世界人類に寄與貢獻し得るのは、斯かる國民になつて始めて可能であると私は考へるのであります、憲法改正に對する政府の態度、方針の自主自律性を疑はしむる尚一つの質疑と致しまして私の問題と致したいのは、草案全體を通じまして、其の構造竝に文體に關してであります、是は草案を一讀する者は何人も、其の構造に於て又表現形式に於て、是れ迄に我が國の立法例に嘗て見られなかつた程の外國調に滿ちて居ると云ふことを感じない者はございませぬ、現行憲法は周知のやうに、「プロシャ」に其の範を取つて居りまするけれども、我々の先輩は之を日本のものとするが爲に、どれだけ努力を拂ひましたことでありまするか、此の度敗戰を轉機と致しまして、今改めて米英の、殊に「アメリカ」の立法例乃至政治文獻を參照すると云ふことは想像され得まするし、又大いに其の必要はあると考へる者であります、併しながら是は又恰も何かの都合で初め一先づ英文で纏めて置いて、それを日本文に譯したが如き印象を與へるのであります、占領治下の暫定憲法と云ふなればいざ知らず、之を其の儘獨立國家たる日本の憲法として、我々が子孫後代に傳へるに足る形式を果して持つて居るかどうか、我が國の立法技術者に果して其の人がなかつたのかどうか、之に關しまして政府の御措置に大なる遺憾はなかつたのか、特に吉田總理大臣に御説明を願ひたいのであります、事は獨り文體と其の構造に關する問題に止りませぬ、それは軈て精神と内容に關係した部分がございます、是より草案内容に關する主要な問題に付きまして質疑を致したいと存じます、改正草案内容に付きまして私の質疑の第一項目は、日本國家の所謂政治的基本性格に關してでございます、申す迄もなく、是は天皇制を繞る日本政治の民主化の問題でございます、私は最初自分の主觀を混へずに、法案を客觀的に解釋することに依りまして、それが政府の言明せられて居る所との間に大なる齟齬、或は矛盾がないかと云ふことを御尋する積りであります、先づ第一點は天皇制自體に付てであります、草案に於きましては、天皇は新に日本國、或は日本國民統合の象徴として書かれて居ります、さうして政治に對する權能は全くございませぬ、單に儀禮的なる國事の事項がそこに規定されて居りまする、之を現行憲法に於きまして、天皇は國の元首であつて統治權を總攬すると云ふあの條文、それに引續いて廣汎なる大權事項を記して居りまするのとは正に對蹠の位置にあると誰も認めて居る譯であります、元來此の度の改正草案に於きましては、從來我が法典に於て一度も恐らく使用されたことのない、全く新しい概念の「象徴」と云ふ言葉が用ひられて居ります、此の本來詩的な、藝術的な言語が持つて居る神祕性に依りまして、天皇制を潤色はして居りまするけれども、今や所謂「象徴」と云ふのは純粹に法律學的には何等の實體概念でもなければ、又機能を表す概念でもございませぬ、即ち今や國會が國家の最高機關でありまして、天皇は最早一つの機關でもありませぬ、即ち國家の政治的意思構成に對しまして、何の關係、形式的の關係をも持たれない、即ち儀禮的、修飾的な天皇となつて居るのであります、天皇制と申しましても、今や單に名稱のみのものでありまして、政治性としては既に其の意義を消失したものと言はなければなりませぬ、斯くの如きは、其の可否は別としまして、客觀的に解釋致しまして、日本國家の政治的基本性格の根本的變革と言はなければならぬと思ふのであります、吉田總理大臣の六月二十四日の當貴族院の御答辯は、果してそれで宜しいのかどうか、金森國務相は其の限りに於ては變更を認められて居ります、其の間政府當局の間に御答辯に矛盾がないかと云ふことを御尋ね申したいのであります、又終戰以來、歴代の内閣、殊に幣原前首相が臣節を盡して護持せむと傳へられた天皇制の内容は果して斯くの如きものであつたかどうかを幣原國務大臣に御尋ね申したいのであります、憲法改正の一つの理由と致しまして、皇室の安泰と云ふことを總理大臣は説明せられましたが、斯く迄致して殘ると云ふことが果して皇室の御名譽であるか、從つて國民の榮譽であるかと云ふことも一つのそこに問題があると考へられるのでございます、政治的基本性格に關する第二の點は主權論、是は所謂國體に關聯した問題でございます、現草案の前文及び第一條に繰返し主張されてありまするやうに、國民の總意が至高であると云ふこと、或は國政は崇高なる國民の信託に基くのであつて、其の權利は國民に依頼すると云ふこと、或は天皇の地位は國民の至高なる總意に基くとなつた如き、是等は今度の新憲法の新しい案であります、是は紛ふべくもなく、所謂君主主權に對立する人民主權の理論でございます、斯く解してこそ初めて先程私が申上げましたやうに、草案に於きまして日本國家の意思構成から、政治秩序其のものから天皇を除外した其の新しい國家形態の基礎づけとして極めて徹底したる立場と申すべきであります、之を現在の憲法に見まするのに、上諭に於きまして「國家統治の大權は朕か之を祖宗に承けて之を子孫に傳ふる」云々、又それを承けまして、第一條に於て「大日本帝國は萬世一系の天皇之を統治す」とありまするのと較べまする時に、此處に根本的の相違を認めざるを得ないのであります、何故に政府は率直に之を承認して明言爲さらないか、我が憲法解釋上に於きまして、國體と相違して居りますのは、實は斯かる成文法の斯かる條章に基いて解釋され來つて居るのが通説でございます、又政府當局の強辯せられて居るにも拘らず、國民一般が所謂國體として考へて居るものは、斯かる政治の基本性格と無關係ではないのでありまして、寧ろ内的な關聯を持つて居るのであります、現に現在の憲法の發布と相前後して渙發されました教育勅語に於きまして、「我か國體の精華」と宣せられてありますのも、斯かる日本の根本的政治性格と關係があるのであります、此の意味に於きまして、我が國體觀念も、草案に於ては明かに變更されて居ると解釋すべきであります、政府は流石に斯かる變更を蔽ふ爲にそれを緩和致しまして、國民の中には天皇を含むと云ふ、極めて奇怪なる解釋を案出されたのであります、加之初めの間は國民の總意が至高であると云ふのは、必ずしも主權の所在を規定して居るのではないと云ふ御説明でありました、併しながら斯樣に國民の中に天皇を含むと云ふ御解釋は是迄の日本の國語竝に法律用語として嘗てないと申して宜しいのであります、且日本の政府が發表されました英譯文に於きましては、明かに「ソヴリンウィル・オブ・ザ・ピープル」、「ソヴリニティ・オブ・ザ・ピープル・ウィル」となつて居るのであります、殊に三月六日の聯合軍最高司令官の聲明には、「主權は今や率直に人民の手に置いてある」と宣言せられてあるのであります、斯く迄明白な事實の中を押切つて、敢て人民主權でないと主張せられる態度は、所謂耳を蔽うて鈴を盜むの類ではありませぬか(拍手)、現に今囘の衆議院憲法委員會の審議に於きまして、色々經緯はあつたやうでありまするけれども、私共は何故か其の理由が解しにくいのでありますけれども、最後の段階に、却て政府與黨から主權在國民の提案があつて、それが遂に今囘衆議院の修正となつたと心得て居ります、政府は之に同意せられた理由は何處にあるのでありますか、私共の解釋としましては、寧ろ現草案の論理を徹底したもの、即ち今や純粹の人民主權を表したもの、殊に其の意味に於ては、英文の精神に於ては、より忠實になつたものと私は考へるのであります、唯併し此の場合にも依然として國民の中には天皇を含むと云ふ解釋を殘すことに依りまして、一方には是迄主權在君説を維持して來た政黨が之に轉換しまして、又他方には他の政黨が此の中には新しく人民主權の思想を織り込んだものとして之を贊同すると云ふ、極めて奇態なる現象をそこに生じて居るのでありまする、併し議會と政府とが如何樣に妥協せられ、解釋されましても、國民主權、或は人民主權と云ふ、世界共通の政治學上の既念が持つて居る眞理性は之を蔽ふことは出來ないのであります、從つて若し之を以て、我が在來の政治的基本性格乃至又國體觀念が變更されぬと御考になるなれば、是は一つの自己滿足、自己慰安、敢て申せばま一つの自己欺瞞と申して宜しいと思ふのであります、(拍手)實に今囘の憲法改正に依りまして、天皇制と主權論を繞つて、政府の否定的な御答辯にも拘らず、私が純粹に、客觀的に、論理的に解釋致しまして、肇國以來の大革命が進行しつつあるのであります、私共は敢て斯かる主義の革命を避くるものではありませぬ、唯問題は國民がそれを意識し、自覺し、それを要望して居るかどうかと云ふことに繋るのであります、政府は此の問題を如何樣に御覽になつて居るのか、昨日も金森國務相の説明、又嘗ての變會の總理大臣の御辯明に依りましても、今囘政府の改正の一つの理由は國内情勢の變化をも考へて居ると云ふ御話でございます、それなら一體彼の草案作成に至る迄、各種政黨、竝に各種研究團體が公表した憲法改正案は、さう云ふものを果して政府に要求したかどうか、況んや健全なる大多數の國民が沈默を守つて居るのであります、何時でも時代の勢力に迎合する少數者の意見が前面に出るのが我が國の國情であります、私は斯かる状態を以ちまして、他日、十年或は二十年の後に國民の間に大なる反動を起す口實、或は名分を與へはしないかを惧れるものであります、此の點に關しまして、總理大臣は如何なる御認識を持つて居られまするか、先程申述べました新憲法の安定性の問題と關聯して御答辯を煩したいのであります、我々は今敗戰後滿一周年、此の改正の事業を通しまして、祖國興廢の第二の關頭に謂はば立つて居ると申して宜しいのであります、何故なれば、敗戰と降伏とに依つて日本の國家は、國體は變更した譯ではありませぬ、「ポツダム」宣言を受諾したと云ふ瞬間に國民主權が日本に布かれたと云ふ譯では決してないのであります、政府の昨日の御答辯には私は贊成するものであります、併し今國民の自由の意思に依つて、今期議會に於て國家を、國體を變更するかせすのかの問題であります、此の秋に當りまして、聯合軍最高司令官の先程申述べた第二の聲明書の中に、政略上の信條や、不當なる野心や、利己的な陰謀を拭ひ去つて、眞に自分の國と、其の國民に對する責任に於て、尊嚴と叡習と、而して愛國心を以て今や當るべきであります、草案が餘りにも外國の政治哲學から借り來りまして、日本の傳統的思想から遙かに斷絶して居ることは、今や外國に於て公の輿論となりつつございます、私共は今茲に新しい善きものは進んで、之を採つて、改革を斷行しますと同時に、他方に、苟たも國民の歴史的本質の中に育成して來ましたものは、之を維持することが必要でございます、所謂憲法の法的繼續性と申しまするのも、斯樣な歴史的な繼續性に裏付けられてこそ始めて具體的の意義を持つのでありまして、之なくしては新憲法は日本國民の血となり肉となることは出來ないのであります、斯樣な見地から、私は我が國の政治的基本構造に關しましては、所謂現状維持的な保守主義でなく、又他方に現在の政府の草案にあるやうな、或意味に於て歴史の斷絶を意味する革命主義でもなく、第三の途を選ぶ必要があつたと考へるのでございまするが、政府當局はそれを如何に御考になるか、現に此のことは、各政黨竝に有力なる諸研究團體が、是迄に公にしました改正案の中に主權の所在を以ちまして、或は日本國家に在りとし、或は又天皇を含んだ日本國民全體に在りとし、或は天皇を首長とする國民全體に在りとしたことは、是は輿論の或、致點を思はしむるものであります、孰れもが政府案に比しまして、遙かに日本の歴史の上に立脚して或改革を狙つて居るのであります、況んや今囘衆議院に於ける修正案と違つて、即ち修正案の如き主權在國民とは本來根本的に異つた立場に立つて居つた筈であります、私自身豫て民族共同體或は國民共同體、英語に譯しますれば「ナショナル・コムミニティ」と云ふ考を持つて居るものでございます、是は一面我が國の歴史に於きまして、所謂西歐に先進した、君主主權と人民主權との對立を遙かに越えて、日本國民共同體の本質を活かす所以であると考へられるのであります、同時に他面に於きましては、御承知のやうに民主主義は何と申しましても個人と其の多數に基礎を置いて居るのであります、之を新たに國家の共同體を構成する所の新たな世界觀を與へる、それに此の問題が重要なる役割を爲すのであります、丁度此のことは十八九世紀の所謂自由主義的民主主義から新たに今世紀に入りまして、共同體的民主主義への發展を意味するものであります、さうして我が國に於きまして國民の結合を根源に於て支へて來たものが皇室であつたと云ふことは、我が國の是からの世界に普遍的な新しい民主主義の上に、是こそ我が國固有の一つの意義を加へるものであると確信するものであります、政府當局は私共の言ひます左樣な國民共同體と云ふものの概念に必ずしも反對されず、或場合には之を採つて御説明になつて居るやうでありますけれども、單に國民と云つたやうな集合概念とは違つて、根本の立場に立つて居るのが國民共同體、或は民族共同體の考であります、それならば寧ろ政府は進んで此の概念を御採用になつて、之を確立せらるべきでなかつたか、併し其の場合には此の新たな民族共同體若しくは國民共同體と申しますのは、最早古代的な神權思想や、或は中世的な封建思想や、或は憧れの中心と云ふが如き、新しい浪漫主義的な神祕性を拜除致しまして、實に本年初頭の詔書に示されて居るやうに、人間としての天皇を中核とし、專ら人としての相互の信頼と、尊敬の關係に置き換へて、所謂倫理的、新しき文化的共同體の概念でございます、此の點に於きましても政府當局は啻に我が國體觀念が變らないと云ふことだけを辯明せられるのを御止めになつて、寧ろ國體觀念が變化し、時代と共に進展すると云ふことを御認になつて、それを宣明され、同時に我が國の政治的權威は斯かる民族若しくは國民共同體に淵源することを御宣明になることが必要であると思ふのでございます、それをどう御考になりまするか、唯其の場合大事なことは、國家と申しますのは左樣な國民共同體の、正に最高の組織體でございます、それ故に國民共同體の中心でありまする天皇は、必ずそれに相應しい地位を、外ならぬ此の國家の中で、當然御持になると云ふことは當然の論結であります、改正案に於きましては御承知のやうに議會、内閣、最高裁判所、それぞれの獨立の機能を發揮することに依りまして、三權分立の思想が徹底して居ります、是は宜しいことでございます、併しながら其の代りに、其の間の法的政治的の統一は或點に於て空白に殘されて居るのであります、然るに此の形式的な統一を充すものこそは、正に天皇の地位であると我我は考へるのであります、併しそれは單なる最早象徴ではありませぬ、所謂國家の一つの機關、即ち國家統一性を保障する機關として、私は之を日本國家の統一意思の表現者であると云ふことが適當であると思はれるのでありまするけれども、さう云ふやうなものとして構成されなければならぬと思ふのであります、其の限りに於きまして、最早天皇の行爲は單なる儀禮的なものではなくして、正に政治に關する一つの國務としてそれに相應しい名分と形式を備へなければならぬと云ふことが當然でございます、さうして又此のことは從來我が國の天皇制に關する論議の中で、左右の兩極端を除いた外、有力なる在野政黨を初め、又有力なる民間研究團體に於ても一致した意見でございます、私の主張致したいのも正に其の一點であります、それは蓋し我が國家の統一的、政治法律秩序の要請から來る當然の論結でございます、苟くも天皇制を存置するからにはそれ以下のものではならぬ筈でございます、同時に又私の主張したいことは、それ以上で敢てあつてはならぬと云ふことであります、即ち現行法のやうに、包括的な大權事項、是は出來得る限り限定すると云ふこと、且又天皇の國務に關する一切の行爲に付きましては、現草案の如く内閣の輔佐乃至同意を必要とし、内閣は國會に對して責任を負ふ、さう云ふ一つの議會政治の確立、是は正に草案の如くでなければならぬと思ふのであります、斯樣にて天皇と國民との間には、最早少數者の獨裁政治の介入する餘地がなく、外に向つては、戰爭の危險は絶對になく、内は、最早天皇の名に於て人間の自由を蹂躪する危險のない平和民主日本の實現が可能となるでありませう、さうして斯かる天皇制と民主主義とが本來何等矛盾することなく相結びて、そこに日本的民主主義の實現が可能となるでありませう、斯樣にして全く新にせられた日本の新憲法は、何故に聯合國と世界に了解されない筈でありませう、私は政府當局が草案を作成されるに當りまして、私の申上げた所謂第三の道に付て如何なる努力を、國民の生命を賭けても此の努力を爲されたかどうかと云ふことを御尋ね申上げたいのであります、憲法の内容に付きまして、以上御尋ね申しました所謂政治的基本性格の次に質疑致したいことは、第二項目として、所謂戰爭抛棄の條章に關係してでございます、是は新に更生しました民主日本が、今次の不法なる戰爭に對する贖罪としてでばかりでなく、進んで世界の恆久平和への日本民族の新な現想的努力を捧げる其の決意を表明するものとして、我々の贊同惜まざる點でございます、殊に此のことは、古來幾多の世界の哲學者乃至宗教家の夢想し、構想して參つた理想が、はしなくも我が國の憲法に於て是が實現されるものとして、世界人類史上に新な意義を持つものとして我々は之を重大に考へるのであります、それだけに問題があることを又私共は考へなければならぬのであります、理想は高ければ高いだけ、それだけに現實の状態を認識することが必要でございます、さうでなければ、それは單なる空想に終るでございませう、本案が發表されました當時に「アメリカ」の新聞の批評の中に、是は一個の「ユートピャ」に過ぎないと云ふことがありましたことは、兎角我々の反省すべき點であると思ふのでございます、戰爭あつてはならぬ、是は誠に普遍的なる政治道徳の原理でありますけれども、遺憾ながら人類種族が絶えない限り戰爭があると云ふのは歴史の現實であります、從つて私共は此の歴史の現實を直視して、少くとも國家としての自衞權と、それに必要なる最小限度の兵備を考へると云ふことは、是は當然のことでございます、吉田總理大臣は衆議院に於ける御説明に於きまして、是迄自衞權と云ふ名の下に多くの侵略戰爭が行はれて來た、故に之を一擲するに如かずと云ふ御説明であるやうでありますが、是は客觀的に其の正當性が認められた場合でも、尚且斯かる國家の自衞權を抛棄せむとせられる御意思であるのか、即ち國際聯合に加入する場合を現在の草案は豫想して居ることと考へますが、其の國際聯合の憲章の中には、斯かる意味の國家の自衞權と云ふことは承認されて居ると存じます、尚又國際聯合に於きまする兵力の組織は、特別の獨立の組織があると云ふことでなしに、各加盟國がそれぞれ之を提供すると云ふ義務を帶びて居るのであります、茲に御尋ね致したいのは、將來日本が此の國際聯合に加入を許される場合に、果して斯かる權利と義務をも抛棄されると云ふ御意思であるのか、斯くの如く致しましては、日本は永久に唯他國の好意と信義に委ねて生き延びむとする所の東洋的な諦め、諦念主義に陷る危險はないのか、寧ろ進んで人類の自由と正義を擁護するが爲に、互に血と汗の犧牲を拂ふことに依つて、相共に携へて世界恆久平和を確立すると云ふ積極的理想は却て其の意義を失はれるのではないかと云ふことを憂ふるのであります、それのみならず現在の國際政治秩序の下に於ては、「アメリカ」國の或評論家が批評致しましたやうに、苟くも國家たる以上は、自分の國民を防衞すると云ふのは、又其の爲の設備を持つと云ふことは、是は普遍的な原理である、之を憲法に於て抛棄して無抵抗主義を採用する何等の道徳的義務はないのであります、又何れの國家に於きましても、國内の秩序を維持するが爲には、警察力だけでは不十分であります、本來兵力を維持する一つの目的は、斯かる國内の治安の維持と云ふことも考へられて居るのであります、殊に日本の場合には、將來を想像致しますると、國内に於きまする状勢の不安、其の状態は相當覺悟して居らなければならぬと思ふのであります、政府は近く來たらむとする講和會議に於て、是等内外よりの秩序の破壞に對する最小限度の防衞をも抛棄されると云ふことを爲さらうとするのであるか、此の點を御尋ね申上げたいのであります、若しそれならば既に國家としての自由と獨立を自ら抛棄したものと選ぶ所はないのであります、國際聯合は決して國家の斯かる自主獨立性を否定して居りませぬ、寧ろそれを完全なものにする爲に、互に聯合して、世界に普遍的な政治秩序を作らうと云ふのが其の理想であります、尚且大事なことは、斯かる新しい國際運動は、結局に於て、世界は一つ、先程申した私の申上げまする各國の民族共同體を越えて、そこに世界人類共同體と云理想ふを目途として居るものと我々は解釋するのであります、然るに此の世界共同體の理想に於きましては、單に其處に與へられて居る平和を維持し、唯國際の安寧を維持すると云ふだけぢやなしに、人種、言語の區別を立ち越えて、世界に普遍的なる正義を實現すると云ふ爲に各國間の協力が要請せられるのであります、其の爲に功利主義的な、單に現状を維持すると云ふだけでなしに、政治經濟上のより正しき秩序を建設する爲に絶えず努力が各國民に依つて拂はれなければならぬのであります、而もそれを武力に依らないで、飽く迄も人類の理性と良心に愬へ、平和的方法に依つて之を達成しようとする所の大なる理想があるのであります、日本が是迄の過誤を清算致しましたる以上は、將來世界に向つて單に戰爭を抛棄すると云ふことだけを宣言するだけでなしに、進んで世界共同體の間にありまして實現すべき斯かる理想目的を持つことが必要であります、それは現に近く來らむとする所の講和會議に對しても其の備があるべき筈だと私は思ふのであります、今囘衆議院の修正に於きまして、「日本國民は、正義と秩序を基調とする國際平和を誠實に希求し」、と云ふ一句が當該條文に加へられたのであります、此のことは私の以上説明しましたやうな意味に於て、頗る重要な意味を持つて居ると私は思ふのであります、何故なれば、是は單に戰爭を抛棄すると云ふだけではなしに、進んで民族の平和の理想を謳つたものであります、それ以上に私の考へますことは、單なる平和の現状を維持すると云ふのぢやなしに、飽く迄も國際正義に基いた平和を理想とすると云ふ所に重要なる意義があると思ふのであります、今囘の衆議院の憲法修正に對して、修正の中の最も重要な意義を持つて居るものは是であると私は叫ぶ者であります、政府は右修正案に對しまして、此の問題を如何やうに御考になつたか、又此の問題に對して如何なる御用意があるのかを吉田外務大臣に御尋ね致したいのであります、又其の間の法理的な問題に付きましては、金森國務相に御尋ね致したいのであります、次に憲法内容質疑の第三項目と致しまして、國民の社會經濟生活に關して御尋ね致したいのであります、凡そ民主政治の發達は國民の經濟的生活の民主化、其の經濟的基礎の確立なくしては不可能であります、處が此の問題の解決に關しまして、草案の第三章、「國民の權利及び義務」の規定は、果して十分なる條件を充して居るかどうかと云ふことであります、草案が一般に個人の自由及び權利に關する基本的な人權を確立したことは、後れ馳せながら我が國に於て啓蒙思想を完成したものとしまして、現行憲法に比し重要なる意義を持つて居ることを私は認識したいのであります、併しながら單に個人の所謂天賦人權思想を以ちましては、政治的國家生活の問題と同じやうに、社會經濟生活の問題も決して解決し得るものではございませす、此處にも先程申上げました十八、九世紀の自由主義的な民主主義でなく、新たに共同體的な民主主義の發展が生じて來るのであります、取分け戰敗後の我が國と致しましては、國土資源の著しく少くなつた此の我が國に於て、今迄のやうに、況んや又「アメリカ」のやうな先輩國の如く、單に自利心の追求と、それに依る個々の企業の發達競爭と云ふことよりも、寧こ全體の計畫經濟、新經濟秩序の樹立、それに依つて國民全體の生活の安定保障と云ふことがより重要なる意義を持つて來ると考へまするが、之を如何樣に政府は御考になつて居るか、それは個人の自由及び權利と云ふ領域よりも寧ろ社會的正義の問題でありますが、戰爭抛棄に付きまして世界に理想を宣言致しました日本が、此の國内に於ける社會的正義の實現に向つて同じく劃期的なる一つの立場、方向を憲法に於て宣示するの必要がなかつたかと云ふことを御尋ね致したいのであります、草案に於きましては、成る程個人の權利は濫用してはならぬ、之を公共の福祉に利用すべきであると云ふことは書いてあります、政府はそれを手掛りと致しまして色々社會政策を實施なさる、又それが或程度迄出來ることと考へます、けれどもそれには自ら一定の限界が出て來ます、若しそれを超えますると、新憲法に於きましては、最高裁判所に依つてそれが憲法違反として宣言されることは、之に依りまして折角の政府の計畫も施設も無效に終ることはないか、それは御承知の通り、最近「アメリカ」に於ても苦い經驗を持つた問題でございます、私は今茲に一つの例を取上げて説明致したうございます、草案に於きましては、總ての國民は勤勞の權利を持つて居ると云ふことが書いてございます、之を認めました以上は、國家として之を出來る限り社會に奬勵し、又自らも此の方向に向つて施設し、計畫し、立法すると云ふことは當然のことと考へます、其の爲に政府は場合に依つては經濟の再編成を爲すと云ふことの必要も生ずることでございませう、然るに現草案に於きましては、財産權は侵してはならぬと云ふのが根本の建前であります、私有財産、是は必ず正當なる補償を爲すのでなければ公共の爲に使用することは出來ぬとなつて居ります、特定の目的の爲の公用徴收等の場合であればそれでも宜いかも知れませぬけれども、苟くも國家が廣汎なる政策と施設を講じようとする場合に、是で果して出來るものかどうかと云ふ問題であります、そこで御尋ね申上げたいことは、一體政府は此の勤勞權と云ふものを具體的に果して何處迄奬勵し、又政府が之に向つて計畫を爲さらうとして居るかと云ふことであります、又之を忠實に實行せむとする場合に、以上申上げたやうな點に付て憲法上支障はないのか、是は寧ろ實際の任に御當りになつて新しく經濟政策の抱負を持つてやつていらつしやる厚生大臣に御説明を承りたいのであります、尚國民生活保障の問題、所謂生存權の問題であります、此の度衆議院の修正に於きまして、「すべて國民は、健康で文化的な最低限度の生活を營む權利を有する。」と云ふ一條が入りました、是は先程申上げました、新たに我が國の經濟政策が社會的正義に向つたものとして、私は喜ぶべき現象と思ふのであります、此の點に關し一言御尋ね致したいことは、政府當局は只今の國民大衆の生活を如何に御覽になつて居られるかと云ふことであります、彼の過ぐる日の長期の間の主要食糧の遲配、それに依る大幅の結局繰延をしたと云ふこと、此のことに付ては今此處で問ひませぬ、今は聯合軍の食糧放出に依りまして、僅かに都民は今日生活を支へて來て居ります、それでも明白なことは、政府の配給量を以てしては健康な生活はおろかなこと、生命を維持することも絶對に不可能であると云ふ一事であります、他方當局の否定せられて居るに拘らず、「インフレ」は益益昂進致しまして、物價の騰貴は止まる所を知りませぬ、是では國民大衆に於きまして文化生活を享受すると云ふことは思ひも及ばぬ所であります、斯樣な状態の下に國民の生存權、生活保障と云ふのは意味を爲さないのであります、事態の困難性は誰が局に當りましても深刻であると云ふことは十分了承致します、併しそれでは餘りにも政治がないではないか、總じて此の種問題に付きましては、如何に憲法に於て明文化されましても、立派になりましても、政府は之に對する熱意と努力がなければ意味を爲さぬものとなるのであります、そこで私御尋ね致したいことは、憲法改正に當つて、殊に此の度衆議院の修正に依つて國民の生活權を認めました以上は、政府自體が現在其の統制をして居られまする國民生活、其の新たな標準を何處に置かれるか、從つて特に食糧の問題から、之に對してどう云ふ具體的な政策を新たに樹てようとして居られるかを農林大臣に御説明を承りたいのであります、憲法の内容に付ての私の最後の第四項目として御尋ね致したいのは、教育及び文化の問題であります、凡そ新憲法の制定にも比すべき今囘の改正案に於きましては、初めから偉大なる一つの構想、體系的な考を持つて之に臨まなければならぬと云ふことは當然であります、然るに前申しました經濟生活の問題に付てもさうでございまするけれども、此の教育問題に付きましても、正に其の前文に於ては國家の文化的な使命に付て一言も觸れる所がありませぬ、僅かに第三章の國民の權利義務の條下で、二三の規定が散見するに過ぎませぬ、是は今世紀に於きまして新した出來ました外國の憲法に照らして見まする時に、特に其の爲に章を設けたり、少くとも根本の規定を憲法に書いて居ると云ふことは、十分我が國に於ても參照すべき必要があるのではなかつたか、殊に今後の日本に取りましては、世界に向つて戰爭抛棄をすると云ふことだけでなしに、世界人類に向つて我が國民の果すべき文化國家としての使命を自覺せしめる上からも、又内に於きましては先程申述べた新しき民主主義の實現の爲に、經濟的な民主化と云ふことと竝んで、或はそれ以上に教育と知的の、之が基礎要件をなさねばならぬと云ふことに鑑みましても重要であつたと思ふのでございます、政府が説明せられる所に依りますると、教育法の如きものを新たに設けられまして、學校教育に關する根本の問題を規定なさらうとして居ると云ふやうに承つて居りまするが、外ならぬ憲法に於きまして、其の教育の全般に通じた根本方針竝に國家の之に對する任務を規定する必要はなかつたのか、之を先づ御尋ねしたいのであります、是と關聯致しまして、私が文部大臣に伺ひたいのは、文相が豫て懷抱し、又新聞にも傳へられて居りまする、所謂教權確立と云ふ問題が誤解を起す虞がないかどうかと云ふことに付てであります、それは今後或意味に於て盛にならむとしまする政黨の間の激烈なる抗爭、又其の勢力のお互ひの交替、さう云ふものから獨立して教育の權威を確立しようと云ふ所にも一つの狙ひがあると考へられます、其の意味に於ては正しき主張を含んで居ると思ふのでございますけれども、又他面其の結果は國民の政治的、社會的生活から遊離して、一種の何か教階的制度、「ハイアラーキー」と申しますか、一種の文教官僚主義に陷る虞はないかと云のことでございます、殊に地方教育制度に付きまして、傳へられまするやうに、大學總長を長官とした學區廳を全國に幾つか設けまして、それを文部省の直轄とする、又其の下に、地方の府縣に文部省の支廳を設けると云つた如き構想は、所謂教育の民主化に對して寧ろ逆行するものを含まれるのではないか、是は寧ろ今後新にせられまする地方自治體との連繋に於きまして、各層の教育化、殊に國民公衆の中から選ばれた者を以てする教育委員會の如きものを以て運營せしめることを適當と考へないかどうか、是は寧ろ教育の地方分權化の問題でございます、米國教育使節團の報告も此の線に沿うてあつたものと私共は了解するのであります、要するに國民一般から分離することに依つて教育の權威を確立すると云ふのでなくして、國民に直結して、國民の自覺と、其の手に依つて教育の進歩を圖ると云ふことが眼目でなければならぬと考へるのであります、凡そ教育理念は眞理とか正義とか云ふ單なる抽象性に止つて居らない限りは、必ずや其の時代の政治的、社會的精神と分離して考へることの出來ないものであります、是が具體的な内容は、必ずや國民の左樣な政治的、社會的現實生活から生じて來るものであります、茲に必要なことは、各政黨の世界觀的の對立を超えて、苟くも新憲法は如何なる國民も把握しなければならぬ、さう云ふ國民的な世界觀、或は政治觀と云ふものを作つて、公衆の識見を高めると云ふことが極めて重要なことになると思ひまする、蓋し、近代民主主義の大きな使命は、其處に實はあると考へるのでございます、此の意味に於きまして一般國民の政治教育は、今後極めて重要な意味を持つて來ると思ひまするが、政府當局は、之に對してどう云ふ御方針、どう云ふ御對策を御持ちになつて居るかを伺ひたいのであります、尚其の場合、特に文部大臣に私の伺ひたいのは、文部大臣は、新憲法草案の中で、其の他の事は姑く別と致しまして、先程申上げました我が國の所謂政治的基本性格に關してどう云ふ御考を持つて居られるか、本年一月の下旬でありましたか、當時文部省學校教育局長兼東大教授で在られた文相が、朝日新聞紙上に「天皇制の辯明」と云ふ一文を發表せられました、それは我が國の歴史的な事實と民族の固有性から天皇制の合理的根據を認められて、就中我が國の法的秩序の理念から、天皇制の必要あることを重要視せられ、其の爲には保守的な名稱すらも必ずしも厭はずに、普く天下に向つて、之が同志に向つて呼び掛けた優れた一文でありました、當時若き學徒竝に心ある人々は、如何にも之に共鳴し、君の良心、所信と其の勇氣に稱讚を送つたか知れませぬ、其の良心的な態度と努力を以てしても、此の草案を變更することは出來なかつたかどうか、それとも其の所信に於て、心境に於て變化があつたのかどうか、事は我が國の文教の根本の問題であります、心ある多くの人々は、文相の態度を注目して待つて參りました、私共は此の機會に文相の所見と其の心境を率直に茲で御説明にならむことを御願ひするのでありまする、以上質疑して參りましたやうに、本草案に於ける所謂天皇制を繞つての我が國民主政治の在り方、即ち基本的政治性格の問題を初めとして、世界に類例のない戰爭抛棄の問題、又今後我が國に於て喫緊を要する社會經濟生活、又教育文化の問題を初め、多くの問題を内包した憲法であります、それが此の度衆議院を通過可決しました現段階に於きまして、今後の取扱を如何にすべきかと云ふことに付きまして、政府當局に簡單に御伺ひしたいのであります、一つは貴族院との關係であります、元來「ポツダム」宣言の附屬文書に依りまして御承知のやうに、國民の自由に表明したる意思に依つて決すると云ふ以上は、國民の代表者たる衆議院が之に當ると云ふことは當然でございまする、貴族院は此の資格はありませぬ、然るに政府は、今囘の改正案は現行憲法の七十三條に依つて之を御提出なされました、それなれば之に從ひまして、貴族院は憲法草案に對して、全面的に其の見地からは修正をする權限がある筈であります、此の關係を如何に了解したら宜いか、是は私は法律問題ではないと思ふ、政治的問題として其の解決を圖る以外に途はないと思ふ、私一個の意見と致しましては、衆議院の院議を尊重する意味に於て、貴族院としては之に修正を加へない、少くとも政治的根本性格に關する部分は、修正を差控へるべきものと私は考へるのであります、貴族院としましては、何れ態度を御決定になることと存じまするけれども、政府自身は本問題を如何樣に御考になるのであるか、是は今囘の貴族院の審議の根本前提となるものでありまするが故に御尋を申上げるのであります、第二に衆議院が正當に選擧されました國民の代表者として、先づ之が審議に當ることは當然であります、けれども事は結局國民自身の自由に表明する意思に依つて決るのであります、其の意味に於きましては、最後に國民投票の問題が必ずや考へなければならぬのであります、是は政府が凡そ「ポツダム」宣言に對して忠實であらうと致しますれば執るべき態度であつたと思ふ、殊に又最近「フランス」或は「イタリー」の事例を見ましてもさうでありまするし、眞に民主主義の憲法は斯くの如くにして制定されるでありませう、現に本草案に於きましても、將來憲法の改正の場合は左樣になつて居るのであります、然るに將來の改正より今更に必要な此の制定の場合に於て何故さう云ふ御手續を御考にならなかつたか、少くとも現在の草案の附則に於きまして、議會を通過したる後、一定の期間に於て國民の間に之を問ふと云ふことが必要であつたのではなかつたかと云ふことを御尋ね申したいのであります、元來此の草案に於きまして一般の國民に提案して其の承認を求めると云ふ場合には、只今申した憲法改正の場合を措いては外にないやうであります、處が草案に於きまして、議會絶對主義と云ふものは他の國に類例のない程日本に於ては今度は出來たのであります、從つて議會が、殊に多數黨が專横に流れると云ふ場合に之を防ぐ方法は何か、唯一に其の背後にありまする所の將來教養を持つて自覺した國民公衆の意思決定より外にないのであります、是亦先程申上げました自由主義的な、代議民主政治とは異る所の共同體的の民主主義の主張であります、故に極めて重大なる一般問題に付きましては、即ち「レフヱレンダム」の制度を御考になる必要はなかつたか、此のことは元來は政治的基本性格に關する重要なる問題でありまするけれども、便宜茲に合せて御質問をしたいのであります、以上憲法改正に對する私の質疑を終るに臨みまして、一言申上げることを御許し願ひたい、今囘の改正は祖國日本を打換へて、自由と正義の完全な國に迄高めむとするにあるものと我々は考へます、從つて此の出發點に於て自由と正義其のものが護り得ず、其の基礎の上に國を立てることが出來なかつたなれば、祖國の獨立は不可能であります、我々の建設の事業は何時か又崩壞するでありませう、眞實は一時の間は掩はるかも知れませぬけれども、歴史は何時か之を明白なる白日の下に之を照し出すでありませう、其のことを私共は今次の大戰に於て身を以て經驗した筈であります、其の意味に於て私共は飽く迄眞理を眞理とし、僞りを僞りとして、互ひに眞理の發見に協力すべきであると思ふのであります、祖國の運命を決すべき重大なる改正草案は、今や衆議院を通過して本院に廻りました、此の時に貴族院と致しましては、假に根本的なことは何も加へることは出來ないと致しましても、之を自由に批判し、質疑し、將來の改革の日の爲に國民に勸告をすることが出來ます、蓋し貴族院に相應しい最後の御奉公でありませう、私は一議員とし又一學究として乏しきながら自己の良心と理性に從つて責任を以て質疑を致した積りであります、故に關係各大臣に於かれましても、國家更生の爲に良心的な責任ある御答辯を願つて此の機會に於きまして、何よりも國民の前に眞實を明かにされむことを希望致す次第であります、(拍手)
〔國務大臣男爵幣原喜重郎君登壇〕発言のURL:https://teikokugikai-i.ndl.go.jp/simple/detail?minId=009003242X02419460827&spkNum=4
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005・幣原喜重郎
○國務大臣(男爵幣原喜重郎君) 只今の南原博士の御質疑に御答へ申上げます、御答へ申上げる上に於きまして吉田首相に對する御質疑の點にも自然觸れる所があるかと思ひます、其の點に付きましては私の申述べることは單に私個人の考へと、斯う云ふ風に御聽取を願ひます、前内閣が當初より憲法改正問題に關して如何なる方針を執つて居つたかと云ふことであります、先づ南原博士の御質問の第一點は、私等は當初より方針を決めて此の問題の調査に著手したのではありませぬ、先づ調査をしてから方針を決めると云ふことに致したのであります、從つて當初の構想とは調査の進むに從つて、漸次變つて來ると云ふことは、是は當然であらうと考へます、御承知の通り前内閣時代には松本博士が本問題の調査立案を主宰せられまして、日夜此の爲に肝膽を碎れたのでありまするが、私は何も此の問題に專門的知識を持つて居る譯でもなく、唯同僚の一人として其の議に與つただけのことでありまするけれども、只今御質疑がありましたから、私に關する範圍内に於て私がどう云ふ心持で此の議に與つたかと云ふことを大體先づ御話申上げたいと存じます、此の憲法改正案の第一條の規定に付きまして、天皇は日本國民統合の象徴であらせられると云ふ此の一句に御注意を願ひたいと存じます、象徴と云ふことは何だか神祕性を帶びて居るやうに仰せられましたが、私は左樣に考へて居りませぬ、是こそ常識的な現實を示したものと私は考へて居るのであります、天皇の御身に依つてこそ日本國民の統合が表現し得られるものと私は信じて居ります、天皇の御存在を離れては日本國民の統合は考へられませぬ、日本國民が支離滅裂せる烏合の衆にならないのは、天皇が自然と國民を中心點に惹きつける力、即ち求心力となつて、いつも國民の中樞にあらせられる爲であります、其の求心力と云ふのは權力でもなければ、政治機能でもありませぬ、天皇の御手の中に何等の權力も、政治機能もなかつた昔の武門時代、封建政治時代に於きましても、國民の統合の中心點は儼然として、天皇の御身に存し、毫も移動しなかつたのであります、斯かる事實は我が國の歴史を一貫し、其の濳在意識は、今や國民の信念となつて、人心に奧深く根を下して居るものと認められます、我が國に於て、政體は變つても、國體は變らないと云ふのには、種々の見方もありませうが、其の一つは此の以上の事實を指すものであらうと私は考へて居ります、現行憲法には、天皇大權事項が相當廣範に亙つて居ります、之に乘じて一部の人々が、誤つたる理念、盲目的の愛國心に依り、濫りに袞龍の袖に隠れて、無謀なる國際的冐險政策を企て、遂に我が國民を血と涙の深みに陷れたと云ふことは誠に痛恨の極みであります、之が爲、延いて累を皇室に迄及すこととなつたのであります、憲法改正案第四條に、天皇が國政に關する權能を有せられないと云ふことが規定されてありまするのは、畢竟一部の人人が斯樣なる危險な策動を未來永劫に封ぜむが爲であると思はれます、天皇の大權の制限は、要するに皇室の御安泰と、國民の幸福とを永遠に保障するの目的に外ならぬのであります、又改正案の第九條には國際紛爭解決の手段として、戰爭に訴へることを否認する條項があります、「マッカーサー」元帥は本年四月五日對日理事會に於ける演説中、此の第九條の規定に言及致しまして、世間には戰爭抛棄の條項に往々皮肉の批評を加へて、日本は全く夢のやうな理想に子供らしい信頼を置いて居るなどと冷笑する者があります、今少しく思慮のある者は、近代科學の駸々たる進歩の勢に目を著けて、破壞的武器の發明、發見が、此の勢を以て進むならば、次囘の世界戰爭は一擧にして人類を木つ葉微塵に粉碎するに至ることを豫想せざるを得ないであらう、之を豫想しながら我々は尚躊躇逡巡致して居る、我が足下には千仭の谷底を見下しながら、尚既往の行懸りに囚れて、思切つた方向轉換を決行することが出來ない、今後更に大戰爭の勃發するやうなことがあつても過去と同樣人類は生殘ることが出來さうなものであると云ふが如き、虫の良いことを考へて居る、是こそ全く夢のやうな理想に子供らしい信頼を置くものでなくて何であらうか、凡そ文明の最大危機は、斯かる無責任な樂觀から起るものである、是が「マッカーサー」元帥が痛論した趣旨であります、實際此の改正案の第九條は戰爭の抛棄を宣言し、我が國が全世界中最も徹底的な平和運動の先頭に立つて指導的地位を占むることを示すものであります、今日の時勢に尚國際關係を律する一つの原則として、或範圍内の武力制裁を合理化合法化せむとするが如きは、過去に於ける幾多の失敗を繰返す所以でありまして、最早我が國の學ぶべきことではありませぬ、文明と戰爭とは結局兩立し得ないものであります、文明が速かに戰爭を全滅しなければ、戰爭が先づ文明を全滅することになるでありませう、私は斯樣な信念を持つて此の憲法改正案の起草の議に與つたのであります、次に第二點として南原博士は、三月六日の憲法改正に關する方針が激變した理由如何、斯う云ふことを御問になりました、此のことに付きましては、私は冐頭に一言申上げて置いたのでありまするが、前内閣時代に確かに松本博士が現行憲法の第一條乃至第四條は、自分は之に對して其の儘存置して置く積りであると云ふことを一家の私案として申されました、左樣に私は記憶致して居ります、是は實は此の第一條乃至第四條だけではありませぬ、大體から申しますれば、現行憲法は頗る彈力性がありまして、是が若し正當に適用されて居りますならば、憲法改正の問題は生じて居なかつたと思ふ、然るに遺憾なるかな、是が先刻も申しました通り歪曲せられ、間違つたる方向に適用せられましたが爲に此の問題が起つて來たのであります、斯樣に考へまするならば、最早我々は此の血や涙の喰付いた古い着物は此の際綺麗に投げ捨てて全く新しい着物、斯樣な記念の存しない着物、假令元の着物が如何に本質が良くても、其の地質が良くても之を捨てて新しい衣替をすると云ふ氣持にならなければならぬ、斯樣に我々は考へたのであります、即ち初めの構想と追々構想が變つて來たと先刻申しましたのは此の意味であります、今日の時代の要求を考へますと云ふと、斯う云つたやうな、もう血や涙の喰付いた着物、古い憲法に拘泥して居る…其の憲法に何にも責任はありませぬけれども、事實上さう云ふ歴史が喰付きました以上は、是は取替へる、是は私は今日の時代の要求に適するものであると斯う云ふ風に考へて居る、從ひまして此の憲法改正に對する方針の激變せる理由と云ふことの御質問に對しましては確かに激變したのであります、急變したのであります、急變したのも我々が國際内外の情勢を考へて、どうしても是は是で進んで行く方が宜いと云ふ我々は信念を以て書いたのであります、何も我々が先刻南原博士が仰せられましたやうに、引摺られて躊躇逡巡つて愚圖々々長い間を經過して居つたと云ふやうな御非難がありましたが、私は左樣な非難は當らぬことだと考へます、尚其の他の諸點に付きましては係の大臣から御答辯になると考へます、(拍手)発言のURL:https://teikokugikai-i.ndl.go.jp/simple/detail?minId=009003242X02419460827&spkNum=5
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006・徳川家正
○議長(公爵徳川家正君) 内閣總理大臣
〔國務大臣吉田茂君登壇〕発言のURL:https://teikokugikai-i.ndl.go.jp/simple/detail?minId=009003242X02419460827&spkNum=6
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007・吉田茂
○國務大臣(吉田茂君) 南原博士に御答を致す前に、昨日澤田君の御尋に對して、答辯を保留致して置きました衆議院に於ける私の演説に付ての文句の中に御咎めのありましたことに付て御答を致します、私の致しました衆議院に於ける演説は、憲法の審議を衆議院が終了致しまして、其の審議の御勞苦に對する感謝の言葉と致した演説でありますが、先づ冒頭に於て私は斯う申したのであります、本院に於て憲法改正案が可決されました、是は衆議院に於てであります、又末段に於きまして、本案が成立する迄には固より尚必要な手續を殘して居るのであります、茲に諸君の努力に對し感謝の意を表します、「猶必要な手續が殘つて居る」、斯う申したのであつて、尚之が成立する迄には「猶必要な手續が殘つて居る」と斯う申したのでございます、之に依つて御咎めの點は明瞭になつたかと考へます、次に南原博士に御答へ致しますが、此の憲法改正案に對しては、甚だ早急に拵へ上げて、爲に自主性を失つて居る、唯單に政府の本旨は國際關係のみであると云ふやうな御言葉のやうに承知致しましたが、此の憲法改正案の成立に付きましての來歴は、今一應幣原國務大臣から説明がありましたが、政府と致しましては終戰後直ちに此の問題は採上げて居るのであります、東久邇宮内閣以來此の問題は採上げられた問題でありまして、幣原内閣に至つて具體的に研究を益益進められて、そして遂に成案を得て、而も國民の意思、國民の之に對する批評を十分に聽かむと欲して、總選擧前に之を發表するの必要を感じて發表致しまして、總選擧に於て憲法改正案に對しての國民の意思を問はむと致した譯であります、次に自主性を缺いて居ると云ふ御考があるかも知れませぬが、政府と致しましては、國民の自主性、國民の要求は十分採入れた考であります、尚其の外に南原博士の御話の通り、現在は肇國以來の大變革の秋であります、從つて又國際情勢は之を心の中に入れざるを得ないのであります、のみならず國際情勢に於きましては、時と云ふことを十分に考へなければならぬのであつて、故に私は此の必要の下に此の改正案が兩院に急速に提出の運びが出來るやうに政府と致しましては十分努力を致した譯であります、又此の憲法草案の爲に特に議會を召集して、特別な議會に掛けるが宜いか惡いかと云ふことに付ては、政府と致しましては現在の議會に掛けることが宜いと、斯う考へましたので、其の點に付ては不幸にして南原博士と意見を異に致します、又戰爭抛棄に付て、將來國際聯合に入る意思であるか、或は自主的、自衞的の戰爭をも抛棄したのであるかと云ふ御尋でありますが、今日は日本と致しましては、先づ第一に國權を囘復し、獨立を囘復することが差迫つての問題であります、此の國權が囘復せられ、さうして日本が再建せられる此の目下の差迫つた問題を政府は極力考へて居るのでありまして、萬事は講和條約或は國家の態勢が整ふと云ふことを、政府として極力其の方向に向つて努力して居る譯でありまして、それ以上のことは御答へ致すことは出來ないのであります、(拍手)
〔國務大臣金森徳次郎君登壇〕発言のURL:https://teikokugikai-i.ndl.go.jp/simple/detail?minId=009003242X02419460827&spkNum=7
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008・金森徳次郎
○國務大臣(金森徳次郎君) 改正憲法案の中に於きまする政治的基本性格に關しまして南原君の御質問になりました點に付て御答を致したいと思ひます、南原君の御質疑は種々なる角度から種々なる要點に觸れて御質疑になりましたが爲に、一々果して網羅的に御答し得るや否やと云ふことは自ら疑つて居りまするが、其の基本的なる點に付て申上げましたならば、恐らく御了解を願ひ得ることと思つて居ります、御質疑の第一點は天皇制を繞る問題であり、第二點は主權論とも謂ふべき事項に亙るものであつたと考へるのであります、天皇制を繞る問題に付きまして色々な御意見を御述になりましたが、それは天皇制に關する此の新しき憲法案の取扱方は、現行憲法とは對蹠的であつて、政治的なる意思構成としては殆ど無意義であつて、天皇制を存置すると云ふことは實は制度の實體に加へたる紛飾に過ぎないのではないか、斯う云ふことが御議論の骨子となつて居つたやうに思ふのであります、此のことは日本國民が過去の長い間、殊に明治憲法以來統治權の總攬者として、而も三つの權力の統括者として、又其の中に於きましても強力なる行政權の統括者として天皇の御地位が定つて居つたことに對しまして甚だしく違つて居ることは是は申す迄もありませぬ、且又更に根本に於て天皇の御性格の由つて起る基礎たる理由に至りましても、觀やうに依つては變つて居ると言はなければなりませぬ、そこで私共此の憲法の草案に付て考へまする時に、實に心を甚だしく傷ましめた問題であるのであります、我々は過去の戰爭を通じまして、又それより前の經驗を通じまして、本當に眞理を眞理として觀る力を育成したものと思ふのであります、世界の知識を吸收すると同時に、我々の過去を再檢討して、今迄蔽はれて居つたものを冷やかに見透して、心に好ましく思ふと否とを問はず赤裸々に事物を判定すると云ふ心持になつて來たのでありまして、其の根本に於て一つの問題は、一體國家の意思の、即ち國家の活動力の源泉を成して居るものは何であらうかと云ふ點であるのでありまして、此處に目覺めますると、種々なる物の考へ方が根本的に變つて來なければならぬと思ふのであります、其の我々の國家活動の源泉となるべき力は何處にあるか、それは先程南原君が仰せになりましたやうに、民族共同體であると答ふることは確かに聰明なる、恐らくは正しい所の御考であらうと思ふのであります、併し憲法自身は學説の範圍に迄は亙つて居りませぬ、左樣な學説をも包容し得る立場に於きまして、此の憲法は草案に於きましては、國の至高の意思が國民にあると云ふ趣旨の言葉を以て言ひ現したのであります、至高の意思が國民の總意に在る、斯う云ふ言ひ現し方を以てしたのでありまして、是は考へ方に依りましては、實に過去の傳統を甚だしく破壞する所のものであると思ひまするが、南原君が仰せになりましたやうに、十分根柢ある學理的なる基礎を有し得るものと信じて居るのであります、其の前提に依りまして憲法の各條文は整理せられて居りまするが、主權と云ふ言葉を何故使はなかつたかと云ふことに歸著致します、政府の原案に於きましては、主權と云ふ言葉は使つては居りまするけれども、今申しました意味とは全然別の所に使つて居りまして、謂はば國權と國の直接なる活動力と云ふやうな意味の所に使つて居りまして、國家の働の源泉たる意思と云ふやうな意味には使つて居なかつたのであります、是は主權と云ふ言葉が、日本の現在に於きましても、亦其の由つて來つた所の諸國の用ひ方に於きましても、種々なる意味を持つて居る、多岐的である、其の多岐的なる言葉を以て此の大事な思想を言ひ現すことは、まだ熟して居ないのではないか、斯う云ふ前提の下に至高の意思と云ふ言葉を以て説明をしたのであります、併し其の意味は私が衆議院に於て、明かに説明を致しました通り、私の定義したやうな意味に於きましては、主權は國民の全體に在ると云ふことに歸著して居りました、其の點に於きまして、政府の説明としては、一點の曖昧さをも持つて居る譯ではございませぬ、然るに衆議院に於きましては、特に其の點を一層明確にする爲に、主權は國民に在りと云ふ言葉に修正をすると云ふ方向を採られたのでありまして、是は私の説明の趣旨と何等矛盾する所はございませぬ、唯多岐的なる言葉を輕々しく使ふことを避けた、其の心持が此處に於て固成せられたと云ふことに歸著する次第であります、左樣に主權と云ふものが、國民の全體に在ると云ふことは、即ち過去の日本の實情、本質と違つたものであると云ふ所に問題が起つて來ると思ひます、昨日あたりからの、恐らくは南原君の御説の中にもあつたのではないかと思ひまするが、是れ即ち日本の謂はば革命とも謂ふべきものであると云ふ風に御説明、御主張になつて居る場面があります、私はさうは決して思ひませぬ、我々の過去に於きましては、日本の本當の姿が、言葉を以て、力を以て、色々なものを以て蔽はれて、十分なる説明を與へられて居なかつた、又之に應じまして、國民全體の認識も其處迄至つて居なかつた、併し今日に於て考へて見ますれば、國民の全體の意思が、日本國家の活動の源泉を成して居つたと云ふことは、歴史の示す所に依つて本格的に之を類推することが出來るのである、是こそ認識の變化であつて、實體の變化ではない、私、昨日天動説、地動説の變化の誠に愚かなる例を以て申しましたが、誠に全く此の例は當つて居ると今も尚信じて居る次第でございます、斯樣に考へて來ますると、天皇の御地位は如何なるものかと云ふことが起つて來るのでありまするが、私は天皇の本當の御地位は我々の心の根柢との繋りに於てあるものである、敢て一片の法律を以て作り得るものでもなく、法律を以て消し得るものでもない、日本民族の熱烈なる血液が流れて居る限り、我々の全精神との繋りに於て天皇の御地位がはつきりと國民の心の中に在るのであるし、又遡つて見れば歴史の中にはつきり現れて居る、其の基本の考を提へて言へば、是が即ち日本の本當の姿ではないか、それの本當の姿と言へば、それは即ち國體と云ふ言葉を一つの意味として言ひ表し得るのではないか、且又國民が常識的に國體と言つて居る其の姿ではなからうか、此の前提の下に此の國體と云ふものは日本國民の心の奧深く持つて居る其の天皇との繋りと云ふものに於て日本民族と云ふものは結成せられ、それに基いて國家が出來て居る、其の特色を言ふのであると云ふ説明をして居つたのでありまして、私は今日に於て其の考が正しいのであると思ひ、先程此の點ではなかつたかも能く存じませすが、南原君は一種の自己欺瞞であると、此の點ではなかつたら申譯ありませぬが、一種の自己欺瞞であると仰せになりました、言葉の使ひ方は別としまして、私は全責任を以て自己欺瞞と信じて居ないと云ふことを明言致したいと考へて居るのであります、次に斯樣な基礎の下に於きまして天皇の御地位はどうであるかと云ふ道徳的方面に於きましては、國民の歴史と心との中に宿つて居る、面も現實の政治の面、法律の面に運び來りまする時に如何にするかと云ふことが起つて來る、是から憲法の問題となつて來るのであります、是以前は憲法の以前の問題であります、其の本質が憲法に接觸して先づ現れまする所が憲法の第一條であります、「天皇は日本國の象徴であり日本國民統合の象徴」であると天皇の御地位は日本國民の總意、所謂國家活動の源泉となる所の「日本國民の至高の總意に基く」と規定してあるのでありまして、茲にはつきり國家活動の源泉となる國民の總意に基く天皇の御地位が神祕的なる考のみに基いて是が説明せられるのではなく、確乎不動の歴史と國民の心の中に根差して居ると云ふことがはつきりしたのであります、今迄の天皇の御地位と云ふものは、小學校の子供と雖も、疑を差挾めば差挾み得るやうな神話を基礎として日本の基礎原理を規定したと云ふことは、どうしてさう云ふことがやれたか今日でも不思議に思はれるのであります、之に依つて愈愈天皇の御地位は御安泰と申すことが出來得た次第であります、斯樣に天皇の御地位がはつきりと國法上に認定し得たことは、先程南原君が申されました通り、諸國の知識を廣く集めると同時に、日本の中に備つて居る美しい特殊なる傳統を尊重しなければならぬと云ふ原理に當ると思ひます、日本國民の心の中心となつておいでになる方が國民の總意に依つて國民統合の象徴であると云ふ風に定めることは、實に適切であると考へて居ります、さうして國法上此の地位が定まりますれば、此の象徴たることと相繋つて適當なる國家の働きに關します御權能が之に附隨すべきことは勿論であるのであります、憲法第六條、第七條に定つて居りまする天皇の御權能は澤山之に萠して居ります、即ち象徴たる地位に伴つて相應しく且多過ぎず、少からざるものを特に留意して規定せられたものと考へて居ります、併し此の限度に於きましては色々な意見も立つことと思ひます、程度の問題になるやうなことがありまするが、何れに致しましても是は本質的に儀禮と云ふ意味を深く持つては居りまするけれども、決して儀禮のみに止つて居るものでないと云ふことは、特に申上げなくても能く御承認下さり得ることと思ふのであります、一體天皇の御地位に多くの權能を認めて、例へば法律の裁可であるとか、條約の批准であるとか云ふことを認めますることは確かに國民感情の一面に於て大いに適合する面があらうとは思つて居ります、併し我々はきらびやかなる飾りを以て天皇の御地位を考へようとするよりも、素朴なる我々の心の中に於て、眞に國民敬愛の中心たる天皇を見ると云ふ所に重點を置きたい、さうして天皇に付て色々な紛糺せる責任が起らず、又皇位は世襲であると云ふ原理と、天皇には政治的責任が起らないと云ふ原理とを併せ考へまして、又過去に於きまして紛糺した此の政治が天皇の名を傷つけたと云ふことを避けまする爲には、斯樣な程度に六條七條の内容を定むることが妥當と思つた次第である譯であります、是が大體に於て此の政治機構に關し、政治的基本性格に關しまする私の御答である譯であります、次に此の憲法が衆議院を通過して貴族院に廻つた場合に、貴族院は如何なる關係を持つべきものであるかと云ふ御質疑でありました、是は昨日宮澤君の御質疑に對しまして此の改正憲法が現行憲法第七十三條に基いて議會の議に付せられて居ると云ふことを申上げ、其の關係に於て説明を申上げました、即ち憲法の規定に依れば、貴族院は明かに第七十三條の示す通りの議決權を行使せらるるものであり、修正權等に付きましても、衆議院と異る所はないと考へて居る譯であります、併しながら南原君はそれを法律的に聽くのではない、政治的に見て貴族院は如何にして宜しきか、ど云ふものと政府は思つて居るかと云ふ御質疑でありまするが、此の問題は私が特に申上ぐる必要もないのであつて、賢明なる貴族院の諸君方が十分聰明に御判斷をなすつて下さり得るものと思ひまして、私は特別なる御答を申上げませぬ、第二に「レフェレンダム」の問題であります、此の憲法は國民の全意思に基きて結成せらるべきものであるからして、此の憲法が出來たならば、之を國民投票に付すると云ふ方法を執り、少くともさう云ふやうなことを此の憲法の中に規定を置いて、或期間を經過して此の憲法が一應の效力を持つた時に此の「レフェレンダム」に問うたら宜いではないかと云ふ點の御質疑でございました、此の憲法が將來の改正手續を定めて居りまする場合に「レェフレンダム」の制度がありまする限り、此の憲法の改正に付きましても、亦國民投票に訴ふると云ふことは筋の通る一つの論點であります、併しながら之には先に申しましたやうに、現行の憲法との繋りに於て改正が行はれまするが故に、即ち憲法第七十三條が國内法的な基本原理となつて居るのであります、從つて此の際即座に「レフェレンダム」を行ふことは許されませぬ、然らば後に其の「レフェレンダム」をやつたら宜いではないかと云ふことが起りますが、それには少くとも「レフェレンダム」の規定だけは先づ憲法上效力を生じて、他の規定は效力を生じないと云ふ段階を認めなければなりませぬ、斯う云ふことを考へて居りますると、憲法改正の手續が可なり煩雜なものになり、それも構はぬと致しましても、大體此の憲法は先にも申上げましたやうに、非常に急ぐと云ふことが好ましいのでありまして、此の際特に煩雜なる手續は避け得らるべくんば避けた方が宜いと思つて居る譯であります、處が今囘改正の道行は其の「レフェレンダム」の逆樣を行きまして、先づ憲法草案を世の中に發表して、然る後に衆議院の總選擧を行つて、其の國民は憲法草案を眼に視、色々な話を耳に聽いて、衆議院議員の選舉をし、其の議員諸君が衆議院に集つて此の憲法を審議せられたのでありますからして、自ら御趣旨の内容は不十分ながら、實質的には實現せられて居るものと考へて居る次第でありまするから、此の際改めて「レフェレンダム」をすることは得策でないと思つて居ります、次に尚將來は法律に付ても「レフェレンダム」を行つてはどうかと云ふ御尋でありました、是は確かにさう云ふ考へ方もあり得るのでありまするが、此の憲法を考へまする當時の議論と致しまして、今日も正しいと思つて居りまする考へ方は、先づ議會政治と云ふものを完備せしめまする爲には、議會に重點を置き、其の責任を強化しなければならぬのである、「レフェレンダム」は其の議會と云ふものの價値を減少し、其の責任を輕くするものである、故に此の際に於きましては「レフェレンダム」に進むことは適當でないと云ふ結論でありまして、今日も左樣に考へて居ります
〔國務大臣河合良成君登壇〕発言のURL:https://teikokugikai-i.ndl.go.jp/simple/detail?minId=009003242X02419460827&spkNum=8
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009・河合良成
○國務大臣(河合良成君) 只今の南原博士の國民生活の保障、或は社會政策の實行、斯う云ふ問題が此の憲法草案通りでやれるか、又それをやるとしたならばどう云ふ風にやるか、其の大體の構想を話せと云ふ御趣旨の御質問でありました、之に御答へ致しまするが、大體終戰後の國情の混亂も段段落著いて行くと云ふ風に見て居ります、それで一方食糧問題に對する不安も大分解消する見透しが付いて參りましたと云ふ風になりましたので、此處で矢張り積極的に色々國民生活保障、或は社會政策の實行と云ふ點に大膽率直にやつて行かなければならぬ機會に達したと云ふ風に確信して居ります、それで勿論此の議會にも生活保護法、或は失業對策に對する各種の豫算を提案して居りまするが、其の以外のものに付きましては、多分此の秋に開かるべき議會及び此の暮に開かるべき通常議會に出來るだけ大部分を提案する見込で居ります、大體此の憲法の草案でさう云ふ目的は完全に達して行ける、又此の憲法草案は其の意味に於て非常に進歩的であると云ふことを信じて居ります、先づ第一の御質疑の財産權に付ての御疑問に對して御答へ致しますが、此の財産權は是は申す迄もなく憲法第十二條に生命、自由及び幸福の追求は最大に尊重することが必要だと云ふ規定がありまして、此の生命、自由及び幸福の追求と云ふことになりますると、申す迄もなく財物が必要になつて來るのであります、それで此の財物と云ふ問題に對しまして、或考へ方では之を國有とか公有とか云ふことに原則を置く考へ方もありますが、我々は是は勿論私有が適當である、私有財産が適當である、是は色々の理由で又私有財産制度と云ふものを存置することが民族發展の爲にも宜いのだと云ふ考の下に、勿論此の私有財産制を前提として參る次第でありまするから、從つて財産權は侵してはならないと云ふ當然の規定が出て來る譯であります、併し言ふ迄もなく民主國家に於きましては、自分の權利の主張と同時に他人の自由、權利も勿論尊重しなくちやなりませぬから、ここで南原博士の共同民主主義的の考は勿論是は非常な大切なことであります、さう云ふ意味に於て、矢張り一應認めた私有財産權も公共の福祉に適合するやうにやらなくちやならず、又正當なる保障の下に之を公共の爲に使用すると云ふことを明示した譯でありまして、原則はどうしても私有財産制と云ふものに置きますれば、例外として斯う云ふことに書くと云ふことは是は理の當然である、是で大丈夫目的は達する、又それに對して正當の保障を拂ふと云ふことは、之が矢張り民主主義國家の理念であると、私は斯う云ふ風に解釋して居ります、又勤勞權、或は生活保障のことに付ての御尋でありましたが、是は憲法の草案を法律的に申しますれば、第一十五條に勤勞の權利と義務とがあることが書いてありまして、又二十三條には、「健康で文化的な最低限度の生活を營む權利を有する。」是は衆議院の修正案でありまするが、と云ふ風に規定されて居りまして、是は勤勞の權利であり、又最低生活を營む權利であります、權利でありますから、是は政府其の他のものが之を妨害してはいかぬのであります、妨害してはいかぬけれども、此の文字を法律的に考へるならば、權利であるが、國家は之をどうしても勤勞させなくちやならぬ、最低生活を營まさせなければならぬ義務が其の半面に在ると云ふ意味ではありませぬ、妨害してはならぬと云ふ權利であります、併しながら直ちに二十三條の第二項で之を承けまして、「國は、すべての生活部面について、社會福祉、社會保障及び公衆衞生の向上及び増進に努めなければならない。」と書いて居ります、是は國の義務であります、從つて此の義務に對して政府は全責任を持つて行かなければならぬから、今迄申しました勤勞の權利とか或は最低生活の保障にも、政治的には是は全責任を持つて行くと云ふ結果になる、さう云ふ風に私は法律的に解釋して居ります、それではどう云ふ風に之をやつて行くか、其の構想は如何と云ふ御尋でありましたが、此の點に付きましては、問題を矢張り大體二つに分けて考へて宜いかと思ひます、それは一つは社會保障制度の問題であります、もう一つは完全雇傭の問題であります、社會保障制度の問題の第一に數へるのは勞働問題であります、勞働問題に付ては申す迄もなく、只今勞働組合法が實施されて居りまして、さうして此の議會には勞働關係調整法を提案して居ります、次期議會には勞働基準法を提案する積りで居ります、是は昨日の新聞に小委員會の案として現れました、あの基準法であります、此の三つで大體勞働問題に關する建前は完了する見込で居ります、それから第二番目の問題は、生活保障の問題に重大な關係を持つて居りまする問題でありますが、是は建前は只今の生活保護法、衆議院を通過致しまして、只今此の貴族院に於て審議中の生活保護法、之を根本的の建前に致しまして、それに組合せまして、失業保險の制度及び國民養老年金、是は國民全部を網羅した養老年金、此の制度を具體的に考へて居ります、それから國民の醫療の方面に關しましては、國民健康保險制度と云ふものが只今ありますが、三千萬人ばかりが入つて居りますが、之を強化擴充して行く積りで居ります、それから又醫療普及、病院を増設したり、或は無醫村の村があります、斯う云ふ所に醫療を普及させる、公衆衞生を極力増進して行く、斯う云ふ點に付て色々施策をやりたいと思つて居ります、それから第二の完全雇傭の問題でありまするが、是はなかなか日本の現状に於てはやれませぬ、と申すのは日本に於きまする工業なり農業が非常に發達しまして、所謂産業が興つて來ますると、此の問題は容易に行はれるのでありますが、只今の情勢に於ては其の面に沿うて完全雇傭と云ふことはむづかしいから、是は失業救濟の面を出來るだけ強化して、暫定的に處理して行く、又一方に於ては失業保險、國民養老年金等で之を助けて行くと云ふ方法より採ることが出來ぬと思ひます、それから一つ言ひ忘れましたが、社會保障制度の中に寡婦、孤兒、廢疾者、浮浪者、斯う云ふやうな者に對する社會政策の實行、是は思切つて劃期的の方法を採つて行く積りで居ります、さう云ふ風に致しまして、此の憲法決定の曉には、其の線に沿うた趣旨を十分實行して行くと云ふ考で居ります
〔國務大臣和田博雄君登壇〕発言のURL:https://teikokugikai-i.ndl.go.jp/simple/detail?minId=009003242X02419460827&spkNum=9
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010・和田博雄
○國務大臣(和田博雄君) 私に關しまする南原先生の御質問に御答へ致します、眞の民主主義は、私も同樣に、そこに力強い經濟の裏付けがありませぬならば、又個々の國民の生活の内容に民主主義の精神が滲透致しまするのでないならば、是は單なる空文に終ると、斯樣に考へて居ります、憲法の上に現れました健康な、さうして文化的な最低生活の保障、確保の問題に付きましては、此の最低限度の生活其のものは、是は我が國が今後に於きまする經濟の力の發展に依りまして、變化すると思ふのでありますが、差當り、問題と致しましては、何と申しましても、最低限度の生活を確保致しまする上に於きましては、食生活に付きまして國民に安定感を與へると云ふことであると思ふのであります、現在の食糧事情は甚だ殘念ながら、是は二合一勺と云ふ極めて貧弱な配給しか出來ない状態でございまして、之を以ちまして我々は十分國民生活が、國民の食生活が安定するとは考へて居りませぬ、幸に今年は米作、其の他甘藷の豐作を期待せられるのでござりまして、來食糧年度に於きましては此の點に十分思ひを致しまして、國民が少くとも闇買をしなくても宜い程度に配給の基準量も上げまして、國民の食糧生活の安定感を是非確保致したいと努力致して居る次第でござります、併し根本は何と申しましても、是は國民の食糧を供給致しまする責務を持つて居りまする日本の農業の生産力を高めまして、さうして一面に於きまして農業に從事致して居りまする所の農民の生活及び文化の水準を上げて行く、そこに餘裕を與へますると共に、又一般の國民に豐富なる食糧を供給し得るやうに致しまして、國民の食生活の根本を培つて行くことだと、斯樣に考へるのであります、從ひまして政府としましては、今囘農地制度の第二次改革を提案致しまして、日本の農業の生産力を高め、又農村を民主化しまするに付きましての方途を講じまして、只今私が申しましたやうな目的を達成する爲の一つの手段を講ずることと致したのでございます、簡單でございますが、私の答辯を終ります
〔國務大臣田中耕太郎君登壇〕発言のURL:https://teikokugikai-i.ndl.go.jp/simple/detail?minId=009003242X02419460827&spkNum=10
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011・田中耕太郎
○國務大臣(田中耕太郎君) 南原君の三點に關する御質問に御答へ申上げます、先づ第一に教權の確立に付ての御質問でございます、現状迄の制度に於きましては、實際第一線の教育界が、或は官僚的の勢力に依り、或は地方的或は中央的政治的の權力に依つて歪められて參つたのであります、其のことは我々特に戰時中に於て痛感致した所であります、で是が詰り教育の劃一主義、又教育界から溌剌たる精神を奪つてしまつたと云ふやうな譯でございます、從つて今後に於きましては第一線の教育界を、官僚主義又政治的の干渉から確保しなければならないと云ふことは、是は一般に教育界のみならず、一般の與論となつて居ると申しても宜いと思ふのでございます、是は丁度大學に付て認められて居ります所の自治と程度は或は全く同じではないかも知れませぬけれども、同じ精神から出て居るものでございます、又司法權に付て制度化して認められて居るやうな、さう云ふ趣旨と其の精神に於て共通なものがある譯であります
さう云ふ意味を以ちまして、昨年の秋以來文部省と致しましては此の問題を非常に愼重に審議して參つて居ります、或は外國の制度を參考にし、外國と申しましても必ずしも米國ばかりではない、他の國々の制度をも及ばずながら參考にして檢討して參つて居るのであります、先程御指摘になりましたやうな學制、其の頭に大學の總長を持つて來ると云ふやうなことは、是も「フランス」にございますので、本來の趣旨は、詰り決して他の省に屬して居る教育に關する權限を文部省が取つてしまふと云ふやうな、或は地方的のものを中央に收めようとかと云ふやうな、さう云ふ官僚主義的な、繩張主義的な考は全くないのであります、若しさう云ふ風に御解しになつて居るとするならば、我々の眞意がまだ十分理解されてないと云ふ風に存ずる次第でございます、我々の目途と致します所は全く、詰り地方の教育界に、教育的活動の主なる部分を委ねる、中央の文部省に於きましては、出來るだけ大幅に教育の實質に關する權限を縮小致しましてさうして地方に委ねる、文部省は單なる教育界の連絡、世話役、まあ併し、教科書の編纂とか云ふやうな、紙の不足の際、今日は已むを得ない次第でございます、又或意味の民主主義的の教育原理を徹底させる意味に於ては已むを得ないものと存ずるのでありますが、さう云ふ方面をやりまして、あとは地方の實際の教育家に委せる、それに付ては地方の一般行政に屬して居つた所の、詰り地方の官僚に屬して居つた權限の一部分も、其の地方の教育界に委ねると云ふやうな構想を以て研究致して居る次第でございますが、まだ成案を得た譯ではございませぬから、此處で現在の状態を申上げる譯には參らない次第ざあります、さう云ふ意味に於きまして、先程御話になりました教育の地方分權と云ふ精神は、我々の考へて居る精神でもあるのでございます、それから第二點でございますが、今後の政治教育をどうしたら宜いかと云ふ問題でございますが、先程御話がありましたやうに、詰り各箇の政黨政派を超越する所の共通の再教育を通じ世界觀に立脚してやらなければならぬぢやないか、是は全くさう云ふ考で以てやらなければならぬと思ふのでございます、詰り憲法の改正案の前文に謳はれて居りますやうな、ああ云ふやうな精神、又それ以外に補はなければならない點も多々あると思ふのでございますが、詰り政治的の色々な立場の最大公約數的のものがあると思ふのでございます、それを詰り今後學校教育なり或は社會教育の方面に於て徹底しなければならないと云ふ風に存じて居ります、其の方法は、或は教科書を通じ、或は先生の再教育を通じ、或は大學の専門學校の教授の方々に御協力を願つてやらなければならないこともございませうし、色々「プラン」を文部省と致しましては立てて居る次第でございます、それから第三の點の、私自身が數箇月前に天皇制の辯明に付きまして、小さな短い文章を新聞に載せました、それを書いた氣持と、現在憲法改正案が現内閣に依つて上程せられた其の閣僚の一員として持つて居る感想如何と云ふ御質問でございます、私は其の文章を書きました時と今日と、天皇制と云ふものに付ての、持つて居ります所の考は全く變らないのでございます、私は其の文章を書きました時に持つて居つた考は、日本が詰り共和國、大統領を頭とする所の共和國になつてはならない、さうでないならば日本は「ラテンアメリカ」諸國のやうに「アナーキー」になつてしまふ、革命とそれから獨裁制と云ふものが交替に日本を見舞つて來るだらう、日本が秩序を維持するのは、天皇を中心として統合されて居る以外にはないんだと云ふ氣持からであります、從つて天皇の御權限の範圍の廣狹如何、或は御地位に付きましての法律上の學者の加へる所の解釋如何と云ふやうなことには關係ないのでありまして、天皇は御存在自身、天皇の地位にあられること自身が、我が國民の爲に必要なのであります、詰り天皇は我が國の秩序の象徴と申上げても宜いと思ふのであります、其の天皇は憲法改正案に於きまして天皇たる地位に御出でになるのでありますから、從つて私自身心境に於て何等變化はありませぬ、確信に於ても何等變りはないことを申上げて置きたいと思ひます(拍手)発言のURL:https://teikokugikai-i.ndl.go.jp/simple/detail?minId=009003242X02419460827&spkNum=11
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012・徳川家正
○議長(公爵徳川家正君) 休憩を致します、午後は一時四十五分より開會致します
午後零時四十九分休憩発言のURL:https://teikokugikai-i.ndl.go.jp/simple/detail?minId=009003242X02419460827&spkNum=12
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013・会議録情報3
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午後一時五十二分開議発言のURL:https://teikokugikai-i.ndl.go.jp/simple/detail?minId=009003242X02419460827&spkNum=13
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014・徳川家正
○議長(公爵徳川家正君) 休憩前に引續き會議を開きます、休憩中内閣總理大臣より、九月二十七日迄三十日間帝國議會の會期の延長を命ぜらるる旨の詔書が傳達せられました
――――◇―――――発言のURL:https://teikokugikai-i.ndl.go.jp/simple/detail?minId=009003242X02419460827&spkNum=14
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015・徳川家正
○議長(公爵徳川家正君) 南原君
〔南原繁君登壇〕発言のURL:https://teikokugikai-i.ndl.go.jp/simple/detail?minId=009003242X02419460827&spkNum=15
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016・南原繁
○南原繁君 先程私の質疑に對しまして、厚生大臣、農林大臣、文部大臣からそれぞれ御答辯がありました、それに依りまして私の了解致した點もございまするし、尚御尋ね致したいこともございますけれども、是は又他の適當な機會に讓りたいと存じます、それから幣原國務大臣に對して御尋ね申上げたことに付ても御説明を戴きました、率直に申上げまして、私は之に對して滿足を致しませぬ、是は國務大臣は現在の憲法の運用宜しきを得れば必ずしも改正の必要がないと云ふ御認識から抑抑出發せられたと云ふことでありまして、其の御認識自身を私は初めから問題にして居るのでありまして、さう云ふ面がありますると同時に、如何にあの時代に良き憲法であつたとは申せ、憲法自身に又遺憾ながら根本の問題が一面にあるのであります、さう云ふ御認識を以て、此の國家轉換の大時代に政治家として初めから此の問題に臨まれると云ふことが私は無理であつたと御尋ねしたのでありまして、それに其の後松本國務相だけに御委ねになつて、其の一試案としての憲法改正案を殆ど最後迄御使になつて、さう云ふ政府御自身の御作になつた調査委員會、それと最後の段階に於けるあの結末と云ふものとはどう云ふ關係にあつたかと云ふ風なことに付て御尋ねしたのでありますけれども、私は此の問題に付て十分了承は致しませぬけれども、是れ以上御尋ね申上げることは最早止めます、唯吉田總理大臣に對して御尋ね致したいのでありますけれども、其の爲に御出席を要求して置きましたが、萬已むを得ない御理由で出て居られませぬと云ふことであります、是はどうか後で速記録を御覽戴きまして、何かの機會に御答を願ひたいと思ふのです、それは一つは今申上げましたやうな次第で、最後に三月六日政府發表の通りの結末になりました、其のことと「ポツダム」宣言に規定せられてありまする日本の自主的な態度に依つて、少くとも最高形態は決めて宜しいと云ふことは、純粹に客觀的に見ましてどう云ふそこに解釋が執られるのか、其のことを御聽きしたのでありまして、此の重要なる問題が御答へ洩れでありましたから、是は大事な問題と存じますので、御尋ね申して置きます、もう一つ大事な問題と致しましては、新憲法の安定性のことを御尋ね致した積りであります、是は事實我々が耳にする限りに於きましては、先程申上げたやうな意味の不幸にして臆測が、或は印象があるのであります、之に我々は耳と眼を蔽ふことは出來ませぬ、私は新憲法をして眞に日本のものたらしめるが故に、此の事實を極めて重大に考へるのであります、今日政府がどう云ふ風に御認識になつて、之に對する對策をどう御講になつて居るか、是は政府としては何よりも既に爲して居るべき、又今後も計畫を持つて爲さなければならぬことであると思ひます、さうでなければ、新憲法安定性の上に於て重大なる危惧があるのであります、此のことを政府はどう云ふ風に御考になつて居られるか、對策をせられるか、篤と御考への上、御答辯を願つて置きたいと存じます、一つ先程承つて居りまして、伺ひたい重要な問題と思ひますのは、金森國務相の御答辯に付てであります、日本の主權或は國軆の問題に付きましては、是れ以上お互に質議致しましても、是は無用であります、失禮ながら私共が此の問題に付て衆議院竝に貴族院に於て是迄鬪はされました經過を見て居りまして、今や問題の所在は極めて明瞭であります、即ち此の問題に關しては金森國務相が主となり、先程來御説明のありましたやうな解釋をして居られるのであります、殊に著しいのは國民主權、主權在國民と申しても、其の國民の中には天皇を含んで居る、それ故に從來の日本の根本的な性格、或は或意味に於ての國體とは變りはないのだと、此の御説明は金森國務相の御意見として繰返し拜聽致しまた、それは獨り政府としては同國務相だけではなく、恐らく政府全體の御意見と承知して居るのであります、けれども、問題は、私の御尋ねしたいのは、それは政府の意見、少くとも之に協贊を與へまする議會の意見であります、けれども、今後是は愈愈新憲法となつて確定しまして國内にも國外にも是が愈愈公布された場合に於きまして、其の解釋が何處迄維持せられるか、政府はそれに對してどう云ふ態度を御執になるか、明治憲法に付きましては、伊藤公の憲法義解なるものがあります、政府でそれに似た有權的な解釋書を作りましても、それが如何程の權威を持ちますか、殊に學問と言論の自由の新しい時代に於きましては、政府が一定の決めた新憲法に於ては、斯くの如く國體は解すべきものだ、或は主權概念は斯くの如くすべきだと御解しになつて、それを宣傳されましても、其の通りそれが擴がり、それが受入れられるとは決して限らないのであります、眞理が最後の勝利を得るのであります、私は大學に關係する一人として申上げます、少くとも是が世界に普遍的なる國民主權乃至人民主權と違つて、我が國特有の今迄の考へ方と變つて居ない、君主も含めての國民主權だと云ふことを仰しやつても、其の議論は今の教養のある者には通りませぬ、恐らくは憲法を擔當して居る教官、行政法、政治學、法律學の初歩を研究した者でも、其の議論を受入れをするとは、決して私は請合ふことが出來ないのであります、左樣な次第でありまして、眞理が遂に擴がつて、政府の現在御採になつて居る解釋と違つたものが、それが普及して、それが勝利を得ると云ふことになつた場合に於てどうなるか、即ち私の御尋ねしたいのは、其の爲に政府はどう云ふ方策を御採になるか、さう云ふ場合を豫想しまして……、從來と違つて言論の制限をすることは出來ませぬ、憲法學説を一定の枠に當嵌めることも出來ませぬでせう、此の時に之に對抗して、政府はどう云ふ態度を御執になるか、是は眞面目な問題卜して考へます、之に依りましてすつかり變へるのだ、今迄の國體觀念も變へるのだ、主權概念も變へるのだと云ふことを明かに仰しやつて、國民にそれを覺悟さしてやるなら、是は別であります、けれども、是だけの根本的な改革が加つて居つて、而も尚且變らないものであると云ふ屬性を仰しやる爲には、一體どう云ふ方法を御執になられるか、どう云ふ對策を持つて居られるか、之を金森國務相に御尋ねして置きます、それが萬一……萬一と云ふよりも、私は火を睹るよりも明かだと思つて居ります、それが世間が之を受入れない時は、國民が之を受入れぬ場合には、我々學者が考へるやうに、是が完全なる世界共通の普遍的の人民主權の問題になつて、之に大なる變革があつたと云ふことになりました場合に、此の草案作成に當つた所の政府、命を賭けて此の作成に當つた政府がどう云ふ責任を御取りになるのか、是は悔いても及ばぬことが起るかも存じませぬ、それは總理大臣に於て政府を代表せられて御答辯を他の機會に戴きたいと思ふのであります、之を以て私の質疑を終ります
〔國務大臣男爵幣原喜重郎君登壇〕発言のURL:https://teikokugikai-i.ndl.go.jp/simple/detail?minId=009003242X02419460827&spkNum=16
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017・幣原喜重郎
○國務大臣(男爵幣原喜重郎君) 只今私が御答申上げたことが、南原博士に御不滿足であつたやうであります、是は私の言ひ現し方が甚だ宜しくなかつたのでありませうから、是は致し方もありませぬが、只今仰せられた中に一言申上げて置く必要があります、それは私が初めから、此の憲法は運用宜しきを得れば改正するの必要ないと云ふ、其の見地から出發して此の問題に進んで行つたのであると云ふやうな御話がありました、絶對にさう云ふことはありませぬ、私はさう云つたやうな見地が…さう云ふ風な見方もあるかも知れぬけれども、此の際は總て古い著物は投げ棄てて、新しい見地より出發しなければいけないんだ、内外の情勢に徴して見れば、さう云つたやうな見地に拘泥すべきものでないと云つたやうに私は説明した積りであります、若しさう云つたやうな見地から出發しますならば、何の必要があつて調査會を設けませう、松本博士を主任とした調査會を設けましたのは、改正するの必要があると認めたからであります、從つて改正するの必要なし卜認めて調査に著手したと仰せられるならば、事實誤りでありますから、此の點を申上げて置きます
〔國務大臣金森徳次郎君登壇〕発言のURL:https://teikokugikai-i.ndl.go.jp/simple/detail?minId=009003242X02419460827&spkNum=17
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018・金森徳次郎
○國務大臣(金森徳次郎君) 只今南原君より、私の縷縷申上げました點に付て反對の御意見を御示になりました、多分其の重點は、私は曾て申上げました、天皇は國民の中に在る、其の國民の全體に主權があると、此の點であらうと思ひましたが、それに付きまして、政府は左樣に答辯をする、併し眞理は最後の勝利者である、斯う云ふ風に仰しやつて、それに對して如何に對抗するかと云ふ御質問でありました、私も亦眞理は最後の勝利者であると云ふ風に考へて居りますから、之に別に對抗する考は今持つて居りませぬのであります発言のURL:https://teikokugikai-i.ndl.go.jp/simple/detail?minId=009003242X02419460827&spkNum=18
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019・南原繁
○南原繁君 是で質疑を終ります発言のURL:https://teikokugikai-i.ndl.go.jp/simple/detail?minId=009003242X02419460827&spkNum=19
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020・徳川家正
○議長(公爵徳川家正君) 牧野英一君
〔牧野英一君登壇〕発言のURL:https://teikokugikai-i.ndl.go.jp/simple/detail?minId=009003242X02419460827&spkNum=20
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021・牧野英一
○牧野英一君 此の憲法改正案に對し、私は唯極く小さい、狹い、さうして細かい立場から政府の御考を伺ひたいと思ひます、私は自分が專門として年來御奉公を致しまする學問の立場から、基本的人權に關する部分に付て質疑を提出する譯であります、併しながら憲法の構成は、其の一半が國家機關の構成及び權限でありまして、其の他の一半が國民の權利義務になる譯であります、さうして此の兩者が互に關聯を致して居りまするので、憲法の一部分たる基本的人權に關して質疑を申出ますることは、自ら憲法改正案全體の精神に亙る質疑になるのであります、即ち私の質疑と致しまする要點は、此の改正案の中に現れて居る國家理念が果してどう云ふものであるかと云ふ點にあるのであります、私は唯此の改正案の第三章、即ち第十條以下の中でも、其の一部分に對して疑が出るのでありまするが、さうして又之を所謂公法上の見地からでなく、民法及び刑法の立場から質疑を提出するだけのことでありまするけれども、併し其の立場から伺ふのは、國家理念其のものであります、從來の憲法に於きましては、我が現行憲法を初めと致しまして、十九世紀の諸國の憲法に於ては、其の國家理念、即ち不干渉主義、放任主義、「レッセフェール」の原則の結果として、民法、刑法に付ては關聯する所が先づなかつたのであります、併しながら此の新しい憲法の改正案に依つて、我々が今構成せむとする所の國家理論に於ては、憲法は民法、刑法と相交渉する所が甚だ密接なのであります、從來の憲法は謂はば唯政治の法律であるに過ぎないのでありまするが、此の憲法改正案は更に大いに日常生活の法律であることになつて居ります、從來の憲法に於ては所有權不可侵の原則、現行憲法の二十七條、又罪刑法定主義の原則、現行憲法の二十三條、此の二つの簡單な規定があるに止るのでありまするけれども、今憲法を新たにせねばならぬと云ふことになつて見ますると云ふと、此の二つの從來の規定、而も此の從來の規定と云ふのは、所謂立法事項を規定したものでありまして、法律を以て民法及び刑法の内容を如何やうにとも規定することの出來るものでありまするから、憲法それ自體は謂はば民法に付て、刑法に付て、直接に何事をも規定して居らぬと言つて宜い位のものであります、併しながら此の新しい憲法改正案に於ては、最早此の我々の基本的人權のことを立法事項として法律に讓つて居るのではありませぬ、憲法其のものが此の日常生活の原則を規定して、之を以て將來の立法を羈束して居る譯であります、さう云ふ譯でありまするから、此の新しく成立すべき憲法は公法ばかりでない、私法の要素をも大いに含んで居ると云ふことを考へて戴き、私法としての憲法の意味及び解釋と云ふことが、是から我々の大きな問題になるものと言はねばなりませぬ、さうして若し立法權が將來の民法、將來の刑法に於て、此の新しい憲法の精神に適合しない規定を設けるならば、其の時に於て最高裁判所はそれを憲法違反なりと宣言せねばならぬことになつて居る譯であります、是が此の新しい憲法の特色であります、私共の考では從來は憲法は公法學者の取扱ふものとされたのでありまするが、無論依然として憲法は公法學者のものであります、併しながら同時に我々民法、刑法の學問に從事して居る者も、此の憲法に付ては大いに發言する權利を持つて居る、斯う云ふ風に私は考へます、そこに新しい國家理念が盛られて居るものと考へたいのでありまして、斯樣に憲法を以て公法であると同時に、又私法でもあると、斯う云ふ私の見解が、果して政府の御承認になる所でござりませうか、それを第一に伺つて置きたいと思ふのであります、それが質疑の第一點、此のやうな考を若し御容れ下さることが出來るものであると致しまするならば、其の立場からして憲法の此の改正案の第三章を讀直して見たい、斯う思ふのであります、さう云ふ積りで繰返して此の規定を見ましたが、どうも此の規定の形式が從來の憲法其の儘の甚だ傳統的な形を出でないものになつて居るやうに思はれます、抑抑基本的人權と云ふ考へ方は「アメリカ」諸州の權利章典から始つて、「フランス」の人權宣言に入り、斯うして十九世紀の諸國の憲法に擴がつたものであります、それは所謂十九世紀式の法治國思想に屬するものでありまして、國家は國民の一定の權利自由に對し、之に干渉しないと云ふ消極的な義務を持つて居ると云ふ趣旨のものであります、是は十九世紀の個人主義、自由主義として成立したものであり、之に依つて固より一方には自由競爭の原則が確かめられ、他方に於ては國家が無暗に個人の生活に干渉しないと云ふ放任主義が樹立せられましたので、所謂十九世紀の繁榮と云ふものが出來上つた譯であります、併しながら此の十九世紀の繁榮と云ふものは、其の結果として社會問題と云ふものを惹起することになりました、此の社會問題を適當に解決する爲に國家は新たに自己の責務を感じなければならぬことになりました、斯樣な立場から考へますと、今日の國家は十九世紀の國家から更に發展して、二十世紀の法治國にならねばなりませぬ、此の二十世紀の法治國と云ふものを我々は文化國と名付けて居ります、文化國と云ふ考へ方は特に今日の特別な國際情勢の爲に、我々が已むを得ず引込まれた考へ方ではないのでありまして、實に十九世紀の終りからと申しませうか、二十世紀の初めからと申しませうか、就中第一次の世界戰爭後から著しく世界を通じての最近の普遍的な國家理念になつて居るのでありまする、斯樣な立場から考へて見ますると云ふと、憲法改正案の第三章の規定は全體として眺めた時に、一應之を虚心平氣に讀んだ時に、それは單に國民の人權を尊重し、國家の不干渉の消極的な義務を規定したに過ぎない、即ち十九世紀の憲法の形式を出でないのであると云ふ印象を受けるのであります、此のことは現に此の政府原案で申しますれば、第十一條、人權は國民各自が其の不斷の努力に依つて自ら擴充しなければならぬものである、と斯う言つて居るのでありまして、國家が國民の權利、國民の自由の内容を擴充してやると云ふことに付ての積極的な責務に付ては必ずしも明かになつて居ないのであります、それは從來の所謂「レッセフェール」の原則であります、併し二十世紀の今日に於ては、文化國として國民各自がそれぞれ十分に努力を重ねねばならぬと云ふことは當然なことでありますが、併しながらそれに加へて國家の方面に於ける文化的工作、即ち積極的に國家が總てのものを擴充し、總てのものを促進すると云ふことに付ての責務を重く考へて行く譯になるのであります、私は此の憲法改正案を通讀致しまして、是が必ずしも放任主義に終始して居るものとは思ひませぬ、併しながら全體の形式として總てが「アメリカ」の權利章典を出づること幾何ぞや、「フランス」の人權宣言を出づること幾何ぞや、斯樣に考へざるを得ませぬ、又斯樣に考へることは、昨日來の方々の御説の中にも見えて居りますし、又現に世の中に公にされて居る色々の人の批評にも見えて居る所であります、固より我が國はまだ所謂封建制度の殘り滓を免かれないものが澤山あるので、斯樣にして今世界の輿論から深刻な批評を受けねばならぬことになりましたので、此の憲法改正案に於ても、基本的人權に關する規定が、其のやうな封建性を振捨てやうと云ふ所に大いに眼目を置いて居ると云ふことは、成る程十分理解を持つて考へねばならぬのでございませう、併しながらそれだけでは十九世紀の國家になるだけと云ふことであります、二十世紀に於ける世界の國家理念なるものがどう云ふものであるかと云ふことを考へ、世界的の趨勢に副うて、列國に對し其の「フロント」を一樣にしようと云ふ立場からは、甚だ滿足の出來ないものであると考へたいのであります、政府は或は是で十分我々の所謂文化國家の理想を明かにしたものであると斯う仰せられるかも知れませぬ、さう云ふことになりますれば、固より見解の相違で致し方がないことにもなりませうが、併し各位に於ても能く此の憲法の改正案を通覽して戴きたい、全體として此の心持が甚だ十九世紀式のものを免かれないと思ふのであります、政府原案の第十一條は國民の權利及び自由が國民自身の不斷の努力に依つて保持せられねばならぬと云ふことを明かにし、それに引續いて第十二條に、國民の權利は立法其の他國政の上で最大の尊重を必要とするとして居るのであります、此の位な程度、先づ此の第三章を十條から讀み下しますと此の位な程度であります、斯樣な程度では所謂幸福追求の權利に對する各自の何と申しますか、自由競爭に付て、此の世の中の自由競爭に對し其の公正を維持すると云ふ、謂はば警察的任務を國家が持つて居ると云ふだけのものでありまして、國家が進んで國民の總ての者に對し其の生存權の充實に付て積極的な責務を負ふと云ふ意味が十分でない、私は第三章の初の所、劈頭第一に、國家の文化的任務と云ふものが明らかにせられて欲しいと思ふのであります、若し私の今印象と致して居りまするやうに、此の改正案が其の大體として、基本的人權に對しては單に消極的な意味のものであるに過ぎないと致しまするならば、それは政治の出發點として、最小限度として成る程と云ふだけのものであります、將來に亙り我が國の憲法として國家發展の原則、生生の原理を据附けたものと云ふ譯にはなりませぬ、憲法として國民の經典となり、國民の教科書となるには程遠い古い形式のものと言はなければなりますまい、憲法は國民生活の出發點として最小限度のものとしてに止るべきものではござりませぬ、國民生活の全體に亙る發展の基本原則を示さねばなりませぬ、さうして民法及び刑法に關して、其の積極的な原理を憲法の上にもつと鮮かに、鮮明に示されて欲しいと、斯う云ふ風に私は考へる次第であります、斯樣な所から暫く、民法及び商法に對して此の憲法の適用がどう云ふ風になるであらうかと云ふことを、考へてみたいものと思ひます、一體此の十九世紀の諸國の憲法は比較法學的に考へまして、三つの原則を基本と致して居ります、それは第一に人權宣言の第一條に見えて居りまする自由平等の原則でありまするし、第二は、人權宣言の第八條に見えて居りまする罪刑法定主義でありまするし、さうして第三は、其の第十七條に現れて居る所有權不可侵の原則であります、此の三種の憲法上の原則から出發致しまして、十九世紀の諸國の民法及び刑法の各種の規定が導き出されて居るのであります、併し今日に於ては此の三つの原則は批評を免れないことになつて居ります、固より此の三つを拜斥すると云ふのではありませぬ、それを含みながら、包含しつつ、併しながら更にそれ以上に展開する所謂「オーダー」の一つ高いものにならねばならぬ譯であります、斯樣にして私共は新しい憲法の原則として三つのものを要求致します、第一は生存權の原則であります、第二は改善刑、刑は犯人の改善を目的とすると云ふ改善刑の原則であり、さうして其の第三は所有權を以て、私有財産權ではあるが、同時に公共性を持つものであり、それは義務を包含するものであると云ふ原則であります、固より今日の憲法の下に於てでも此の三つの原則は既に注意すべき發達を致して居ります、從つて之を以て新しい原則とする程のことではないのでございまするけれども、兎に角是は十九世紀の百年を經て、二十世紀の初頭に至つてから、漸次形を成すに至つた所の三種の原則であります、此の憲法改正案に付て事を考へましても、我我が法律の解釋家として解釋上工夫を凝らすに於ては、固より此の新しい憲法から三つのものを導き出すことが出來ます、けれども、出來るならば折角古い衣を投げ捨て新しく衣更へをすると云ふ此の憲法に於ては、是等の原則がもつと率直に、もつと簡明に、もつと斯う總て誰にでも掴めるやうに、浮き出でるやうな鮮かなものを拵はて戴きたいものと考へるのであります、私は斯樣な立場から、暫く此の憲法の改正案の解釋として、四つの原則を拔き出して見ました、我々が二十世紀の憲法の三大原則として居るものを此の改正案に付て探して見ると云ふと、四つの形になつて現れて居るかと思ひます、第一に權利は濫用されてはならぬと云ふことになつて居ります、第二に權利は公共の福祉の爲に利用せられねばならぬと云ふことになつて居ります、第三は個人人格の尊重であり、さうして第四には男女兩性の平等と云ふことになつて居ります、之を綜合して考へますると云ふと、民法、刑法の範圍内に於ては、從來の自由競爭の原則に代へて、新しき信義誠實の原則と云ふことになる譯であります、信義誠實の原則と云ふ言葉は、是は申す迄もなく「ローマ」法以來の法律の言葉であります、初めは債權關係を律する所の原則として設けられたものでありまするが、それが債權關係を超え、民法を超え、商法を超え、今日では刑法に入り、それを超え行政法に入り、それを超え、全法律に亙つて、總て國家と國民との關係に付て適用せらるべき憲法上の原則になつて居る譯であります、是は一方には比較法的のものでありまするが、他方に於ては此の憲法改正案に於ける四つの原則として、茲に規定されて居るものと考へることが出來ませう、斯樣な立場から致しまして、民法上、商法上の問題を一つ二つ數へて見たいと思ひます、何と申しましても問題の第一は所有權であります、憲法改正案は政府原案の二十七條を見ますると云ふと、潔く所有權と云ふ言葉を捨てて居ります、固より現行憲法の二十七條の解釋と致しましても、「日本臣民は其の所有權を侵さるることなし」とある、其の所有權と云ふ言葉は、單に廣く財産權と云ふ意味に解すべきであると云ふ學説があるのでありまするけれども、併し其の由來する所は人權宣言の第十七條にあるのでありまして、それが所有權の絶對性と云ふことを基本として居るものであると云ふことは疑ひありませぬ、所有權の絶對性と云ふことが、中世の封建制度を打ち破つて十九世紀の民主主義を生み出す所の第一の原則であつた譯であります、斯樣な次第で、千八百四年に「ナポレオン」が「フランス」民法を制定致しました時に、「疑はしきは所有權に從ふ」と云ふ原則を豫定して居つたと云ふことになつて居ります、併し今憲法改正案は所有權の斯樣な絶對性をもう認めることなく、財産權を一律に相對的性質のものとして規定することになつたのであります、政府原案の二十七條第一項には私有權の不可侵を規定して居りまするし、それを受けて第二項に「財産權の内容は、公共の福祉に適合するやうに、法律でこれを定める。」、斯うあるのがそれであります、さうしてそれが政府原案の第十一條に依つて統制を受ける譯になりまするので、獨り財産權のみならず、改正案の第十一條に依りますると云ふと、權利一般に付て「國民は、これを濫用してはならぬのであつて、常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負ふ。」と、斯う云ふことになつて參つた譯であります、そこで此の規定に對して私は第一の註文と致しまして、斯樣に先づ第一に財産權の不可侵が規定せられ、次に財産權の相對性が規定せられたのは結構でありまするが、其の財産權には同時に義務が喰付いて居るものである、所有權は義務を伴ふと云ふ言葉がありまするが、同時に其の權利には義務が伴つて居るものであると云ふことを、明かに規定されて欲しいものと思ふのであります、固より政府原案の二十七條に於きましても、第二項に於て、財産權の内容が相對的なものであるばかりでなく、第三項に參りますると云ふと、公共の爲に用ひられるものであると云ふことが書いてあります、相當の賠償を以て公共の爲に用ひられると云ふことが書いてあります、其の外に政府原案の第十一條には、先程も申上げました通り、「公共の福祉」と云ふことが謳つてありまするので、それで一應の埓はあいて居ることになつて居りまするが、併し私としては、私有財産權は更に廣く義務を負擔するものであると云ふことを、もつと率直に明かにして戴いたらどう云ふものであらうかと思ふのです、例へば茲で一つ諸君に御相談を申上げたい、農地調整法と云ふものが先年出來、改正され、又更に一層之を改正しようと云ふことになつて居りますが、農地調整法に依る所有權の制限と云ふものは、現行憲法の下に於ては適法のものでございませう、二十七條の第二項に、公益上必要なることは法律の定むる所に依るとあるのであります、併しながら此の改正案の下に農地調整法を處置せねばならぬと云ふことになりますると云ふと、或は私は憲法違反と云ふ宣言を受けねばならぬことになりはしないかと、私かに憂へて居るのであります、何となれば、改正案の二十七條の第三項は、適當なる補償の下に公共の爲に用ひられると云ふことしか書いてありませぬ、又改正案の第十一條は、權利は公共の福祉の爲に利用せられねばならぬと書いてあるだけであります、權利が公共の爲に取り上げられる、と言つては言葉が少し荒いでせう、併しながら公共の爲に著しい制限を受けると云ふことになる場合に於ては、改正案の下では、或は私が誤解を致して居るのかも知れませぬが、文字が少し足りませぬ、尤も現行憲法の下に於ては「公益の爲必要なる處分」と云ふことになつて居りまして、「必要」と云ふ非常に嚴格な文字が使つてあるに拘らず、實際土地收用法を見ますると云ふと、有用と云ふ程度で、此の憲法第二項が動いて居ります、是は我が國ばかりのことではござりませぬので、外國に於ても憲法上必要と規定してあるものを行政法規に於て、有用なることに付所有權を制限して居ると云ふことになつて居るのはどう云ふものかと云ふ議論が隨分あるのであります、けれども其の點は暫く除外致しましても、兎に角現行憲法の下に於ては農地調整法が法律として成立すると云ふことに付ては、先づ異論なきものと言つて宜いでせう、併しながら改正案の下に於ては、公共の爲に用ひられるだけ、土地の所有者は公共の爲に所有權を行使する、十一條…、又公共の爲に保障を與へて、さうして國家が「公共の爲に用ひる」、「用ひる」と云ふ字が用ひてあるのであります、御參考の爲に、と云つて申上げる迄もなく、改正案の勤勞の件に關する規定、第二十五條の邊りです、此の修正案の第二十五條の第一項は、勤勞に付て修正を致しまして、「勤勞の權利を有し、義務を負ふ」と云ふことになつて居ります、私は後でも一言又繰返して申上げたいと思ひますが、此の勤勞の義務と云ふことを、どう云ふ意味合で衆議院が附加へたか、非常に重い重大な意味がそこに湧出るものと考へるのでありますが、それは又後の御話と致しまして、兎に角所有權、其の他の財産權一般に付てもそれが一定の、何と申しますか、財産權らしい、公共の爲の義務を持たねばならぬと云ふことを、もつと概括的に書いて欲しいものと思ふのであります、扨、斯樣に考へますと云ふと、さう云ふやうな考へ方が民法、商法に亙つて、重大な影響を與へるものと考へられるのであります、恐らくは我が民法、商法は全面的な改正をしなければならぬことになるのではありますまいか、固より民法は「ローマ」法以來發達したる其の技術的規定に於て、又商法は近代の商業生活に我々に示した技術的な組織に依って、其の細かい點に付ては其の儘で宜いでせう、併し民法の、商法の基本的な原則とせられました所有權及び契約の自由と云ふものが捨てられるのではありませぬ、それを含みながら、併しながらそれを超えて、「オーダー」の一つ高いもの、即ち先づ權利濫用の原則として出來上りませう、更に信義誠實の原則と云ふことになりませう、權利の濫用及び信義誠實の原則と云ふことは、不幸にして我が國の法律には見えて居りませぬ、最近に大審院の判例が段段にそれを受入れて、法律の運用を進めて居りまするが、斯うなつて見ると云ふと、此の改正案、殊に其の第十一條の規定から導いて、此の二つの原則が民法、商法の劈頭にもつと明かにせられる筈であらうと思ひます、實は此の憲法第十一條の規定と云ふものは、失禮ながら私から申しますると云ふと、言葉は生温い、もう少し率直に、明白に、例へば例を以て言へば、「ソヴィエト」民法の第一條の如く、或は「スイス」民法第二條の如く、もつと明白に民法の劈頭に…民法ばかりではありませぬ、憲法の上に表されると云ふことを希望するのでありますが、暫く憲法の改正案の第十一條の規定を修正するとか修正しないとか云ふことは先づ委員會に讓ると致しまして、民法、商法の全體に向つて此の二つの原則を明かにすると云ふ必要があると考へます、政府は果して、近く進めらるべき民法、商法の改正事業の劈頭に於て、此の新しい原則を掲げるだけの御積りが御ありになるか無いか、既に此の二つの原則は學説の上でも廣く認められることになり、判例の上でも或程度迄大審院の運用して居る所ではありまするけれども、併しながら今日尚其の影が薄いと云つても宜いでせう、殊に學説上若干の反對があり、數年前迄は若干どころではありませぬ、相當に強い反對があつて、我々信義誠實の原則と云ふことを考へて居る者は、餘程骨を折つてそれと爭はねばならぬ状況であつたのであります、判例に於ても、其の發達は大正の後期より始り、昭和の年代に至つて大いに見るべきものがあることになりましたけれども、尚希望すべき所には遠いのであります、政府は此の二つの原則が學説の上に於て爭ひがあると云ふことを理由として之を明白にすることを躊躇せられるでありませうか、或は又憲法が新たにせられる今日に於ては、此の學説の爭ひと云ふものに對して、法律自らが率直に、簡明に裁斷を下して、之を民法の劈頭に規定するのが然るべきと御考になるものでございませうか、民法、商法の改正は此の次の議會のもので、後日の問題であるなぞと御逃げになつては困る、私は憲法上の問題として、今日其の點を政府がどう云ふ風に御考になつて御ありになるかと云ふことを明かに一つ伺つて置きたいものと考へるのであります、扨、次の問題に移りまするが、斯樣な所有權の原則は二つの方面から、十九世紀百年の間、二十世紀の約五十年に亙つて、自ら著しい制限を受けることになりました、其の一つは企業、「エンタープライズ」、企業の方面からの制限でありまするし、其の二つは勞働の方面からの制限であります、一體憲法の改正案は、所有權が企業及び勞働の二つの方面から制限せられて居ると云ふ現象をどう云ふ風に取扱つて居るものと理解して然るべきものでございませうか、先づ企業と所有權との關係に付て申しませう、是は法人、特に商法に於ける會社の性質、就中株式會社…會社の性質如何と云ふことになる譯であります、從來は會社は其の所有關係が基本を成すものとして考へられら居りましたので、謂はば所有者たる株主が、株主總會として會社に對し最高權を持つて居る仕組になつて居ります、今日に於ては會社の所有關係と、會社の經營關係とは段段に區別して考へられることになりましたので、既に昭和十三年に出來ました新商法に於ては、所有關係と經營關係との分離め趣旨が著しく現れて居るものと云ふことが出來ませう、併しながら全體としては矢張り依然として、株主總會が最高權を持つものと云ふことになつて居る譯であります、併しながら一方に於ては、所有權の社會的使命と云ふものが、どうあるべきであるかと云ふことを考へ、他方に於ては、會社の企業其のものに對し、株主の外に色々の利害關係人があると云ふことを考へねばなりませぬ、先づ第一に其の多數の使用人であります、多數の使用人は株を朝に買つてたに賣ると云ふやうな株主よりも、もつと、寧口一生を會社に捧げて居る者であります、其の次に多數の社債權者と云ふ大きな社會問題があります、さうして更に最後には、其の企業を利用する所の社會一般と云ふものがある譯であります、是等の總ての方面が會社其のものに對してどう云ふ利害關係を持つて居るかと云ふことを考へ合して見ますと云ふと、産業民主化の原則が、茲に微妙に働いて來ねばならぬ譯でござりませう、斯樣にして此の頃では學説上企業それ自體の原則と云ふことが唱へられて居る譯であります、企業それ自體の原則と云ふのは、謂はば企業は一方に於ては株主のものであるが、使用人のものでもあり、社債權者のものでもあり、更に社會一般のものでもある、併しながら他の方面から考へて見ると、株主のものにあらず、使用人のものにあらず、社債權者のものにあらず、社會それ自體のものにもあらず、企業それ自體と云ふことを原則として考へねばならぬと云ふ學説であります、斯樣な學説の意味、價値と云ふものを考へて見ますと云ふと、會社法の組織と云ふものが、全面的に考へ直されねばならぬと云ふことになるのではありますまいか、憲法改正案は直接に企業と云ふものを取扱つて居りませぬ、併し政府原案の、財産權に關する規定から考へますれば、それが一つの財産權、企業は財産權の一つの形態であるとして考へられ得るものでありませう、併し會社と云ふ組織の下に財産權が、今日の經濟組織に於て、企業と云ふ一つの形を持つことになりますると云ふと、一般財産權とは離れて、特別に企業と云ふ一種のものになるものと考へねばなりませぬ、私は斯樣な立場から企業の國家的、社會的性質乃至使命に關する規定が憲法の上に鮮かにせられることを必要と考へて居るのでありまするが、假に其の點を別に致しまして、商法一般、取分けて會社に對し商法の改正を政府はどう云ふ風に御考になつて居るかと云ふことを伺つて置きたい、例へば手近く、企業の管理と經營とが株主總會を越えて、如何に廣く利害關係人一般、又特に國家の立場から考へ直さねばならぬと云ふことは、十分憲法上の問題とするに値するものと考へます、企業は最早十九世紀に理解せられたやうな、所謂經濟人、「ホモ・エコノミーカス」の營利的な手段としてのみ考へらるべきものではござりませぬ、從つて商法は最早單純な、技術的な法律として論じ去らるべき性質のものではありませぬ、企業の社會的、國家的性質乃至使命に關聯して、新しく倫理的意義の深いものとして、總てのものが取扱はれねばならぬことと考へます、さうして此の新しい憲法に於ては、是非共それが特筆大書されて然るべきと考へねばなりませぬ、併し固より此の點に於ても學説上爭があります、能く政府の當局から色々なことで伺ひますると云ふと、學説上爭のある所はさう無暗に氣短かに法規の上に表すことが出來ぬと云ふ御話でござりまして、固より其の御心持に付ては理解を惜しむ積りではござりませぬ、併しながら今憲法が改正せられるのであります、如何なる精神に基いて憲法が新たにせられるかと云ふことを考へますると云ふと、商法に於ける企業それ自體の原則と云ふものは、獨り商法改正の問題であるに止らないのであります、世の中に財閥解體と云ふ問題があります、法律論として考へますれば、持株會社整理委員會と云ふ制度が設けられてありますが、此の委員會の性質、乃至働きと云ふものが大いに問題とせらるべきものであります、それと憲法改正案との關係が果してどうなるものでござりませうか、憲法は一般財産原則と共に、併し一般財産權とは離れて、獨立して企業其のものの性質を明かにし、企業それ自體の原則を商法に適當に織込んで戴きたいと思ひます、若し是も明文がない場合に於ては、我々は解釋家の仕事として之を此の新憲法から引出すことが出來ないとは申しませす、併しながら解釋の廻り遠い途を通らないで、此の時勢に於て、學説の爭に對し、政府は勇敢な裁斷の鉈を揮はれむことを希望したいものと考へるのであります、扨、次に勞働の方に移ります、所有權は一方企業に依つて制限される譯でありまするが、他方に於ては勞働から重大なる制限を受ける譯であります、憲法改正案は之に付て二種の規定を設けて居ります、其の一つは勤勞の權利に關する政府原案第二十五條の規定でありまするし、其の二は團結權に關する政府原案第二十六條の規定であります、此の二つの規定は、勤勞を民法上の雇傭關係の問題に放任しないで、國家の特別なる保護と干渉との下に置かむとするものであります、是は明かに十九世紀式の法治國的なものより、二十世紀式の文化國的なものに移つたものであると云ふことを示すものでありまするが、併し其の用ひられて居る所の言葉と其の規定の内容とに付ては聊か疑がある次第でございます、先づ勤勞の權と云ふ言葉であります、先程厚生大臣の説明を伺ひますと云ふと、是は勤勞をする自由と云ふ意味だ、一つの自由權の一面であると云ふことであつたかと心得ます、併つながら我々は學問上從來勞働權と云ふ言葉を用ひて居りますが、此の勞働權と云ふ學問上の言葉と、改正案の勤勞の權と云ふ言葉とは、何か一つ連絡を付けて考へて戴く譯には行きますまいか、勞働權と云ふ我々の用語は固より飜譯でござりまするので、言葉として甚だ熟しては居りませぬけれども、それが飜譯として認められて居る關係上、沿革的にも、理論的にも「ヨーロッパ」の用語に於ける一種の意味を持つて居るものとして、學界には認められて居るものであります、それは勞働する自由ではありませぬ、其の自由の權利に止らないで、勞働を欲する者が勞働の機會を國家に要求し、國家がそれに對して十分の責務を負ふと云ふ關係を意味する所のものであります、それで勞働の關係に於きましては、國家は勞働者の自由なる行動を尊重すると云ふだけの消極的な立場に立つものではございませぬ、勞働に從事せむことを欲する者に對し、國家は其の希望を尊重し、それに對し希望を達成せしめるやうに十分に活躍せねばならぬことになるのであります、其所に此の勞働に對する最近の國家の文化的意味が成立して居る譯であります、併し成る程先程の厚生大臣の御説明のやうに、此の改正案に付て勤勞の權利と云ふ言葉を素直に眺めます時、それは學界で所謂勞働權と稱するものを想ひ起すのには、少し困難なことであらうかとも考へます、けれどもそれは政府原案二十五條の第二項に「勤勞條件に關する基準は、法律でこれを定める。」或は政府原案の第二十六條に參りますと、團體行動を爲すの權利を保障するとありまして、此の二つの規定が全體として甚だ消極的な不徹底な形になつて居るからであります、要するに政府原案の趣旨は第十一條に所謂「自由及び權利は、國民の不斷の努力によつて、これを保持しなければならない。」此の一種の考から來て居る、從つて勞働關係に付ても、事業家と勞働者との間の駈引、「バーゲン」即ち自由競爭に付て、成るべくそれを公正に「フェアー・プレー」に總てを保つやうに保障すると云ふだけの意味のものであらうかと察する、察するのではございませぬ、厚生大臣はさう云ふ風に先程御説明になりました、即ち勞働の保全と勞働の促進とに關する國家の積極的任務と云ふものは、其處には考へられて居ないやうな形になつて居るのであります、固より自由權としての勤勞權は、それ自體として既に十分尊重をされねばならぬものでありまするけれども、併し今、我々は勞働と所有權とを適當に結合し配合して、産業の發展、充實と云ふものを圖らねばならぬ立場にあるのであります、其の立場から考へますると右の二種の規定は甚だ微温的なものであると云ふことになるものではありますまいか、憲法は新しい憲法として制定せらるる以上、勞働に對して單に其の自由を保障すると云ふに止まるべきではありませぬ
〔議長退席、副著長著席〕
進んで積極的に勞働の國家的保護に關し、基本となるべき原則を明かにせねばならぬ譯であります、既に若干の勞働法規が成立致しました、又此の議會にも若干のものが審議中であります、此の次の議會に更に新しい案なるものが提出せらるべき筈と厚生大臣が明言せられて居ります、此の點に關する政府の熱意は十分私共として理解致します、併し憲法其のものの規定としては、斯樣な法律の發展を指導、促進する所の原理を示すものとしては甚だ物足りない感があるものとしなければなりませぬ、尚序ながら修正案の第二十七條に付て一言致して置きたい、上でも一言致しましたやうに、此の改正案の第二十七條には、「勤勞の權利を有し、義務を負ふ。」と云ふことになつて、新たに義務を負ふと云ふ言葉が附加へられて居ります、先程も申上げました通り私は是には重大なる意味があるものと考へて居ります、此の勞働者の方に於ては非常に大きな義務を持つて居ると云ふこと、單に勤勞をする自由を持つて居るばかりではない、勤勞をしなければならぬ義務を持つて居ると云ふことに依つて、財産權と勞働との適當な結合、按排と云ふことが是から促進される譯であります、此の義務に付ての規定は、立法上、行政上濫用せられてはなりますまい、先頃の非常時に於ける徴用のやうなものになつてはなりますまいが、併し義務を負ふと規定してありまして、扨、我々が現在の産業關係を見渡しました時に、聊か想像して見ただけでも此の義務を負ふと云ふ規定は、將來の立法上、行政上非常に大きな働きを持つものであると考へます、私は財産權に關する規定に於て、農地調整法が、憲法が新たになつた曉に於て、最高裁判所が如何なる宣言を受けねばならぬかと云ふことを考へて見て下すつても宜いのではないかと私かに思つて居る次第でありまするが、又此の勞働の義務の規定が將來の産業關係に付て、どう云ふ風に擴げられて行くかと云ふことは、餘程關心を以て考へて置かねばならぬ重大な問題であると思ひます、斯樣に考へて參りますると結局所有權と云ふ問題から、更に此の生存權と云ふことを考へなければならぬことになる譯であります、政府原案には生存權に付ての規定がないとは申しませぬが、例に依つて明白ではありませぬ、併し修正案に於ては新たに一種のものが設けられることになりまして、先程南原君からそれに付ての説明がありました、修正案第二十五條の第一項であります、結局我々の意味する所に於ての勞働權と云ふものを擴張して考へますと云ふと、更にそれが生存權と云ふ理論一般に及ばねばならぬ譯であります、私は政府原案を勉強致して居りまする時に、此の點に付て特に政府に付て伺ひたいと思つて居たのでありまするが、既に衆議院の修正を經て新しい規定が出來ました、其の規定の文句に付ては、相當に私として曰くがあります、曰く健康、曰く文化的、健康と文化的と二つだけで宜いか、恐くは有形無形に生活を充實しろと云ふ意味に違ひござりませぬが、用ひられて居る言葉としては其の規定の形に私としてはまだまだ御考慮を仰がねばならぬ餘地が多いと思ひます、併しながら信義誠實の原則が憲法上の問題として國家と個人との關係に適用せられた時に、國家は其の全力を擧げて生存權の保持に努めなければならぬと云ふことが斯樣に認められることになりまする以上は、此の點に付ての稍稍詳しい質疑のことは此處では省きませう、唯政府原案の第二十三條に「法律は、すべての生活部面について、社會の福祉、生活の保障及び公衆衞生の向上及び増進のために立案されなければならない。」と云ふ規定が既に政府原案の中にあつたと云ふことだけは私も忘れて居る譯ではないと云ふことを申上げて置くに止めませう、極く序のことでございまするが、此處の規定に今讀上げました通り、「法律は、すべての生活部面について、」云々のやうに立案せられねばならぬと云ふ、「ハ」と云ふ言葉が私には甚だ氣になるのです、それで配付せられました英譯を見ますると云ふと、稍稍樣子が違つて居ります、英譯に付て私が理解した所では、生活保障等の爲に法律が立案せられねばならぬと云ふ、斯う云ふ意味になつて居ると心得ます、さうすると云ふと生存權の保障に對する憲法改正案の趣旨が餘程斯うなだらかに、穩かに響いて來るやうに思ひまするが、兎に角修正案で全然是が書直されたのでありまするから、此の點をやかましく議論する必要はありますまい、私は今生活保護法案と云ふものが當貴族院に於て審議されて居りまするので、政府の此の點に對するなんと言ひますか、一つの覺悟、それを疑ふ積りではありませぬ、唯憲法上此の點が明かにされて欲しいものと思ふ、それが滿足の程度ではありませぬけれども、稍稍承知出來る程度に於て衆議院の修正を見ることになつた譯であります、扨、私は再び民法に立返つて親族法、相續法のことに付て諸君の御考を一つ伺ひ、同時に政府の所見如何と質疑を提出したいと思ひます、政府原案の第二十二條が、御承知の通り婚姻に付ては、男女兩性の合意のみに基くと、英譯に依ると云ふと、「オンリー」と云ふ字が其處に書いてあります、さうして其の言を探して見ると、合意に依る夫婦のことは書いてありまするけれども、親子のことは一つも見えて居らぬ、此のことは昨日來各位の既に論ぜられた處、私が新たに申出る迄もない所でありまするけれども、どうも寂しい、新しい憲法が夫婦だけを書いて、而も我々の家と云ふものを除外したのはどう云ふものでありませうか、(拍手)今更私が之を特に議論をするのでもござりませぬ、けれども我々の家と云ふものは、もう少し法律學の連中の用ひて居る言葉で申しますれば、家族協同體と云ふものは我々の生活の現實であります、我々は今さう云ふものを新たに持込まうと云ふのではありませぬ、長い歴史を持つて居り、現在の我々の生活に於てさう云ふ一つの家族協同體を持つて居りまするが、併しそれは放つて置けば今日の産業關係の結果としてどう云ふ運命に接するかも知れない状況にあるのです、それで矢張り夫婦と云ふものを法律上なんとかして置かねばならぬと云ふことであるならば、矢張り此の家族協同體と云ふことを少くともそれと同等に憲法上明かにして置いて然るべきことではないかと思ふのであります、固より我が民法に現に規定せられて居る所の家及び戸主權の制度と云ふものはどうもまづい、民法は明治三十一年から實施せられましたが、明治三十四年に於て既に大審院が戸主權の統制に關する一種の判例を示して居るのであります、戸主權と云ふものは實施日ならずして既に破綻を來して居る、判例に於て斯樣に戸主權が統制を受けたばかりではなく、最近の非常時法に於ては重大な制限を受けることになりましたので、今現に形式上民法に於て規定せられて居る戸主權の制度を維持しなければならぬと云ふのではありませぬ、況んや此の憲法改正案の上から考へますると、色々な言葉に民主主義と云ふ字を、政治上の民主主義、産業上の民主主義と云ふ風に附加へて、或は家族制度に於ける民主主義とでも申しませうか、斯樣な民主主義の結果、從來の戸主權の制度と云ふものは餘程改めなければならぬものに違ひありませぬ
〔副議長退席議長著席〕
のみならず先年來、大正の初めから、我が國古來の淳風美俗と稱する一派の議論がありましたが、其の議論のことは姑く別に致しまして、兎に角從來の戸主權は此の際廢止せらるるにしても、我々の現實に營んで居る家族協同體の生活を基本として、此の家族協同體と云ふものを法律上適當に保護し、奬勵し、其の發展を促進すると云ふことは、矢張り憲法上の問題としても重要なことであらうと思ひます、一體家族協同體ばかりでなく、婚姻關係にしても、是は法律を超えた道徳上の問題であります、併し道徳上の問題ながら婚姻關係に付て或規定のある方が結構であるやうに、矢張り主として道徳の方面から取扱はれねばならぬ所の家族協同體に付ても、新しい憲法はどう考へて居るかと云ふ基本的な原則は矢張り明かにして置いて戴くことが色々な意味に於て適當なのではありますまいか、加之此の現實に我々が營んで居りまする家族協同體と云ふものが、資本主義の爲に段段崩れて行くと云ふことは、我が國だけの問題ではござりませぬ、民主主義の諸國、先進諸國に於ても敦れも此の點を問題にして居りまするので、獨り社會學者、教育家、倫理學者と云ふやうな人々が之を取扱ふばかりではなく、矢張り法律學者が之を取扱つて居るのであります、それで結局、法律上、就中憲法に於ても夫婦相和しと云ふ原則の外に、父母に孝に、兄弟に友にと云ふ原則が何かの形を以て適當に現されて欲しいものと考へる次第であります、戸主權の制度は、封建式のものであるとして相當に深刻的な批判を受けましたけれども…発言のURL:https://teikokugikai-i.ndl.go.jp/simple/detail?minId=009003242X02419460827&spkNum=21
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022・徳川家正
○議長(公爵徳川家正君) 此の際一言申上げます、只今米國下院議員團の一行が傍聽席に見えられました、「ペンシルバニア」州選出民主黨議員「シエリダン」君(拍手)「フロリダ」州選出民主黨議員、「サイクス」君(拍手)「ミズリー」州選出共和黨議員「ショート」君(拍手)「アイオワ」州選出共和黨議員「マーチン」君(拍手)「カリフォルニャ」州選出共和黨議員「ジョンソン」君(拍手)「オハイオ」州選出民主黨議員「フェイガン」君(拍手)牧野君宜しうございます発言のURL:https://teikokugikai-i.ndl.go.jp/simple/detail?minId=009003242X02419460827&spkNum=22
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023・牧野英一
○牧野英一君 斯樣な譯で私は封建的色彩を拭ひ去つた所の家族協同體の原則と云ふものが、原則其のものが、簡明な言葉を以て先づ憲法に掲げられ、其の適用が新しく修正、改正せらるべき民法に若干規定せられて然るべきものと思ひます、例へば今差當り私が考へて居りまする所だけでも、家族協同體に於ては、其の家の氏を稱すると云ふことが權利でもあるし、義務でもあるとしなければなりますまい、家族協同體の間に於ける扶養義務と云ふものは、單に一般の扶養義務のやうな金錢給付の義務に止らないで、矢張り夫婦と同樣な實體的の協力義務であつて然るべきものと思ひます、さうして婚姻に對する戸主の同意と云ふやうなことが從來問題になつて居ります、今日では最早此の憲法改正案の適用としては、其の同意は必要でありませぬけれども、併し苟くも婚姻をする以上は、家族協同體に對して適當な理解を得るの途を履むと云ふことだけは義務として然るべきでござりませう、其の適當な現解を得ないでも婚姻は出來まするが、若し婚姻をしたならば、家族協同體に對して自分はどう云ふ責任を覺悟せねばならぬかと云ふ位は考へて然るべきでありませう、住所、居所と云ふやうな問題でも同じやうに考へることが出來ます、さう云ふ所から問題は、家族協同體に於ける協力の義務を超えて更に相續の問題にも影響が及び得るものと思ひます、相續法の上でもう家督相續と云ふものは止められることになりませう、併しながら相續の制度を、遺産相續一本建と致しましても、家族協同體に於ける統合責任者と然らざる者との間に區別を認めると云ふことは然るべきことではありますまいか、又家族協同體の一員たる者と、既に外へ出た者との間には、矢張り區別があつて然るべきものと云ふことにはなりますまいか、斯樣にして民法上色々な適用を考へることが出來ます、是は技術上相當に骨の折れることではあると思ひまするけれども、先づ憲法に於て原則を明かにし、民法に於てそれぞれの適用を規定すると云ふことが然るべきことではないかと私は考へて居ります、尚此の序に更に申上げて見たいのは、一體此の親族法全體に付て、もう少し倫理的な、社會的な原則を明かにすることがどう云ふものであらうか、我々の家族關係と云ふものは、主として道徳的の關係であるにも拘らず、法律の上に規定せられて居る所の關係は、皆權利と義務との、何と申しますか、誠に情けない潤ひのないものになつて居るのであります、併し所有權及び契約の關係に於ても、既に信義誠實の原則と云ふものを明かにせねばならぬと云ふことになりますれば、況んや親族關係に於てをや、人事調停法第一條は、人事調停の目的を規定しまして、道義に基く温情を以て事件を解決すると云ふことに致して居りまするが、親族法其のものが正にさう云ふ譯のものでなければなりませぬので、斯う云ふことが民法の上で出來なければならぬ、憲法の上で考へられて然るべきではありますまいか、法律の倫理化、「モーラリゼーション・オヴ・ロー」と云ふことが一つの大きな問題になつて居ります、法律の倫理化と云ふことは、先づ親族法から始る譯であります、是は思想問題でありまするが、同時に法律問題であります、親族法の規定が、乾からびた河原の小石の積み重ねのやうになつて居ると云ふことは、法律を讀みながら誠に我々の忍びざる所であり、又憲法改正案の精神とは凡そそぐはない性質のものではないかと考へるのであります、(拍手)斯樣な所から更に進んで相續法と云ふことが問題になります、此の憲法改正案の結果として、相續法は非常に大きな影響を受けることになります、即ち家督相續と云ふことがなくなります、或は民法の改正に於ては總て均分相續と云ふやうなことになりませうが、斯樣にして所有權が零細化すると云ふ社會問題は、既に均分相續制を採つて居る諸國に於て皆問題にして居る所であります、先づ例へば農村に於て經濟上どう云ふ打撃を受けるであらうかと云ふことが考へられる譯であります、此の點に付ては「アメリカ」に於ても亦「ヨーロッパ」に於ても、既に政治家の骨を折つて居る所で、此の民主主義的先進諸國に於ける立法例として參酌すべきものは色々あるのであります、事を單純な分割相續に委せて、例へば土地がばらばらになる、零細化する結果、農村としての能率を擧げることの出來ないやうになると云ふことを防ぐにはどう云ふ風にしたら宜いでせうか、所有權は義務を伴ふと云ふ原則が相續法に於ては餘程大きな適用を見なければならぬことであります、是も後日の民法改正に讓ると云ふ問題ではない、憲法の改正の問題として矢張り私共は提出したいと思ひます、産業民主主義、經濟民主主義の適用として農地調整法と云ふものが既に出來上り、改正せられ、更に改正せられむとしつつあると云ふことを既に一言致しました、斯樣に農地調整法が實施せられる結果として、自作農と云ふものが段段發達することは誠に喜ばしいことではござりまするが、併しながら自作農は發達したけれども、農村の生産力が全體として低下したと云ふのでは、角を矯めむとして牛を殺すやうなことになるのであります、此處に大きな問題がありまするので、農地調整法を越えて更に農村法と云ふものが發達する譯であります、丁度商法を離れて企業法と云ふものが發達しつつあるやうに、今迄の民法を離れて新しい農村法と云ふものが考へられつつある譯でありまするが、此の農村法に於て相續法が又大きな關係を持つと云ふことになる譯であります、併し農村法に止りませぬので、家族協同體其のものには協力の義務があると云ふことになりますると、其の協力の爲に資産の零細化と云ふことを何とか防ぐと云ふことも一つの問題として考へられて然るべきでござりませう、從つて資本或は財産が餘りに小さく分割せられることを避け、それが資産として適當な能率を發揮するやうになるが爲には、例へば有價證券と云ふやうなものでござりまするならば、それはそれで易く分割も出來ませうが、さうでない色々の財産には分割をすることを厭ふものが隨分ある譯であります、例へば單純に不動産の問題に付きましても、それを分割する時には換貨處分に附して金で分割すると云ふことになるかも知れませぬが、何れにしても、均分相續に依つて財産が零細化される他方財産が、所有權が零細化されましても、所有權の社會的作用と云ふものが常に其の效果を保つやうに考へると云ふことがーつの大きい問題であります、差當り其の問題を法律上技術的にどう云ふ風に作り出すかと云ふことはまだまだ是からの問題であります、それで今の問題としては出來るならば或原則を憲法上掲げ得ることになります外、多くの教育問題に委せると云ふことは已むを得ないことでござりませう、そこで家族協同體の倫理と云ふものを尊重して民法の上では如何に分割相續、均分相續になつても皆が協力をして家族協同體を組織する、維持する、發展せしめる、と云ふことを教育上明かにすると云ふことにするに付ては憲法が獨り婚姻に付て規定を爲すに止り家族協同體に付て何等の規定を設けて居らぬと、其處に世の中の誤解を生ずる虞がありますまいか、(拍手)先達て内閣の法制調査會が發表致しました刑法の改正要綱の中に、「姦通罪の規定は之を削除すること、」と云ふ一項があります、さう云ふ積りで議決した譯ではなかつたと私は思つて居るのですが、結局さう云ふ形で發表されました處が、若い人が是から姦通は自由勝手だと云ふことでございますか、斯う云ふ質問を致した人があります、私共の積りは姦通罪に對する制裁は男女同性平等とし、之を民法に專ら委ねること、斯う云ふ形で議決した積りであるのです、それを刑法の改正要綱であるから、刑法だけ書けば宜いのであるから、そこで「姦通罪の規定を削除すること」斯うやつたものですから、どうも世の中の誤解を招いたことになりまするが、家族問題に付きましても憲法上若し片手落になつて居ると云ふことが言ひ得られまするならば、此の片手落の規定が矢張り風教の上に、教育の上に、遺憾なる影響を及すことになりはしないかと云ふことを考へても、まんざら無理なことではないのではありますまいか、(拍手)私は家族協同體の理念と云ふことに付て法律論者が今の所では之を精密に規定することが出來ぬ、さう云ふ人があるのです、それは一つ考へて見なければなりませぬが、併し假に不幸にそれを規定することが出來ないとした時に、是は一つ教育問題で、倫理の問題であると致しますならば、一體此の憲法の下でどう云ふ風に此の問題を取扱ふべきか、教育の當局としてどう云ふ一體覺悟を御持になつて居るかと云ふことを伺つて置きたいと思ふのであります、姦通罪の削除に關するあの要綱の如きは早速抗議を申込んで置きました、是は刑法に關することでございますから、抗議を申込んで置きまして、修正案を出せと云ふことでございますから、若し許されるならば、先程申したやうな趣旨で修正案を出したいと思ひますが、さう云ふ心持で私は家族問題に付て規定のない憲法改正案に對し一抹の寂さを感ぜざるを得ない譯であります、(拍手)段々長くなりましたけれども御容赦を願ひます、是から漸く刑法の方に入ります、(「散會」と呼ふ者あり)段段御迷惑でございませう、實は民法と刑法と一人でやることは無理なことでございますので、誰か片方に分擔を願ひたいと思ひましたけれども、さう云ふ風にいかぬので私が一人で罷り出ました、是は一體二人でやるのですから、明日に亙つて更に申上げるのが本當かも知れませぬ、(「さう願ひます」と呼ふ者あり)、議長が御許し下されば私は喜んで刑法以下のことを明日勤めます、如何なものでございませうか、是はどう云ふ形式で……手續で議長に御願ひしたら宜しうございませうか発言のURL:https://teikokugikai-i.ndl.go.jp/simple/detail?minId=009003242X02419460827&spkNum=23
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024・徳川家正
○議長(公爵徳川家正君) 御繼續を願ひます発言のURL:https://teikokugikai-i.ndl.go.jp/simple/detail?minId=009003242X02419460827&spkNum=24
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025・牧野英一
○牧野英一君 それでは誠に長く申上げて濟みませぬでした、刑法以上のことは明日更に引續き御願ひすることに願ひます発言のURL:https://teikokugikai-i.ndl.go.jp/simple/detail?minId=009003242X02419460827&spkNum=25
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026・徳川家正
○議長(公爵徳川家正君) 其の儘御繼續を願ひます発言のURL:https://teikokugikai-i.ndl.go.jp/simple/detail?minId=009003242X02419460827&spkNum=26
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027・牧野英一
○牧野英一君 失禮致しました、議長は此の儘繼續をしろと云ふ仰せでございますから、誠に恐れ入りますけれども、もう少し申上げることに致します、(拍手)改正案は刑事訴訟法に付ては非常に細かい規定を設けて居るのでございまするが、刑法に付ては幾らも規定を明かにして居りませぬ、それで先づ刑法の根本問題としての罪刑法定主義から始めますが、一體從來の十九世紀に於て發達致しました、罪刑法定主義は、政府原案の二十八條と三十六條とが之を規定して居ります、「何人も、法律の定める手續によらなければ、その生命若しくは自由を奪はれ、又はその他の刑罰を科せられない、」とあるのです、又第三十六條には「何人も、實行の時に適法であつた」「行爲については刑事上の責任を問はれない」とあるのです、當り前のことであります、併しながら斯樣な十九世紀の罪刑法定主義から二十世紀の文化國家は更に新しい罪刑法定主義に考を進めて居るのであります、丁度自由權に付て十九世紀には個人の自由なる行動に干渉しないと云ふことを原則と致しましたのに對し、二十世紀の憲法は、個人の自由なる活動を實質的に充實せしめてやると云ふことを考へるやうになりましたと同じく、罪刑法定主義亦獨り法律に對して人を保護すると云ふばかりではなく、人と云ふのは結局罪人でありまして、惡いことをしても法律に規定がなければ罰しないのでありますから、法律に對して犯罪人を保護すると云ふのが從來の罪刑法定主義でありまするが、今度は新たに法律に依つて犯罪人を保護しなければならぬと云ふ考へ方に變つて來たのであります、言ひ換へて見ますれば、法律に違反したる者を捉へて來て、それを再び社會の一員として役立つやうに拵へ直す、陶冶練成すると云ふことが刑罰の要點であると云ふことになつて來たのであります、改善主議の刑法論とも申しまする、それを稍稍皮肉な言葉を用ひて我々は教育刑と云ふことに致して居ります、刑罰は一種の強い固い嚴格な教育であると云ふことになるのであります、さうして犯罪人をして、犯罪をやつたと云ふやうな社會の屑、最後の一人をも、社會に皆と一緒に進んで行けるやうな人的資源の一人に作り直してやらうと云ふのであります、從來の考へ方に於ては、犯罪人を捉へて來て之に刑を言ひ渡した時に、國家は仕事を終つたものとして居つたのであります、罰してやつた、是で宜い、併しながら今日の考では犯罪人に對して刑を宣告した時に本當に國家の仕事が始る、斯う云ふ風に考へることになつたのであります、即ち刑罰は犯罪人に對して國家の權威を明かにする所に使命を終るものではなくして、其の犯罪人を再び社會に取戻し、之を善良なる社會人として、善良なる市民として、我々の國家に、我々の社會に受け入れるやうにすることが其の任務であると云ふことになる譯であります、此の點に關する憲法改正案の規定は必ずしも明白ではありませぬ、二種のものがあります、其の一つは政府原案第三十三條に、殘虐な刑罰は之を禁止する、斯うあります、是は直接に意味する所は、刑罰を緩和化したと云ふだけのものであります、が今度は其の二と致しまして第十六條に、「何人も、」「犯罪に因る處罰の場合を除いては、その意に反する苦役に服させられない。」斯う云ふ規定があります、是は刑罰が間接には苦役であると云ふことを示して居ります、刑罰は何處迄も苦役であります、併しながら其の刑罰の殘虐性と云ふものは許されない、此の殘虐性を禁ずると云ふことがどう云ふことになるか、此の言葉は甚だ消極的な意味のものでありまして、形としては十九世紀の法治國式なものであります、併し其の消極的な形のものを積極的なものに展開をする、引伸すと云ふことが我々の任務なのであります、それを引伸した時に果してどう云ふ結論に到達することでございませうか、先づ考へられますのは、社會保全の必要の程度に刑罰は止らねばならぬと云ふことであります、社會で必要とする以上の刑罰を加へると云ふことは、殘虐性と云ふことになるのではござりますまいか、刑罰は固より我々の共同生活の規律を正し、社會を保全するものでありまするが、此の世の中に行はれて居る觀念的な一種の議論、感情的な一種の議論は嚴罰と云ふことを主張して居るのであります、さうして其の嚴罰と云ふことが一種の倫理的な意味のものである、倫理的責任の理論上然るべしと云ふやうなことを言つて居るのであります、片方に於ては斯樣に倫理的な觀念論があると同時に、片方では刑罰は被害者に代つて復讐をやるのだ、復讐を整頓し、度を越すことのないやうにするのが刑罰であるから、其の積りで刑罰を科すべきであると云ふ議論が現に行はれて居るのであります、さう云ふそれぞれの議論が刑罰を社會保全に必要なる程度に止めて居る中は、我々も異論はないのです、けれども我々の裁判には、裁判的「テロリズム」、裁判的「フアッシヨ」と云ふ誠に不愉快な批評が或方面から與へられて居るのであります、さうして我々はそれを必ずしも事實として本當であるとは考へませぬけれども、此の際之を考慮しなければならぬ場合に立至つて居る譯であります、社會保全の必要と云ふ點から考へますると、尚御承知の通り一般豫防論と云ふものがあります、碎いて申しますれば見せしめ主義、見せしめの爲に刑罰を科すると云ふ主義であります、今日でも公判廷に於て檢事が、此の被告人は十分之を後悔し、悔悟をして居ると認めるけれども、一般豫防の爲に云々の刑を科せざるべからずと云ふことを公言して居る場合が相當に多いのであります、又稍稍暫く前のことでありまするが、當局の大臣が一罰百戒と云ふ言葉を聲明されたことがあります、一罰百戒と云ふ言葉に依つて當局の大臣が何を意味せられたかは實は私共には分りませぬ、けれども、斯樣な聲明に對しては世の中は震へ上つたのであります、即ち斯樣な聲明に依つて其の邊に經濟統制違犯者が澤山ある、其の中の一つを拔き檢査で持つて來て、それを嚴罰に處することに依つて他の者を威壓しようと、斯う云ふ風に世の中の人は、恐らくは誤解でせう、併しながら理解をした譯であります、斯樣な一罰百戒と云ふやうなことは、當局が檢擧を全うし、本當に罰すべき者を遺漏なく罰すると云ふ點に於ての自己の粗漏を蔽ひ隠して、見付かつた者を嚴罰に處することに依つて、事を解決しようとしたものとして世の中が考へた、さうしてそれを司法「フアッシヨ」と云ふやうな名で呼ぶことになつたのであります、檢擧と裁判とは、尚富籤の如し、富籤は當れば宜いけれども、檢擧の方は當つたら大變だ、斯う云ふやうなことになつて、一罰百戒の聲明は却て不幸なる逆效果を齎し、社會的不安を招いた譯であつたのであります、私共は此の一般豫防論に對して、特別豫防論を考へて居ります、即ち先程の改善主義の刑罰でありまして、眞に重かるべき者には重く、さうして輕かるべき者には輕く、斯う云ふ方法で裁判がどう云ふものであるかと云ふことを世の中に示せば、自ら其處に一般豫防の效果を待ち設けることが出來る、斯う云ふ風に考へて居りまするので、特別豫防と云ふことは、一般豫防と云ふことを無視した議論ではありませぬ、能く世の中の人が特別豫防論は、一般豫防と云ふことを無視して居ると云ふことを言つて居ります、無視しないのです、それを十分重要視しまするが、併しながら重きを重しとすると同時に、輕きを輕しとすることに依つて刑罰の殘虐性と云ふことを避けよう、斯う云ふ趣旨になつて居るのであります、是は何處迄も犯人と雖も、苟も人間である以上は、其の個人の人格を尊重すると云ふ倫理的な人格主義の考へ方であり、それが又此の憲法改正案に於ける個人の尊重と云ふことと併せて考へられて然るべきものであらうと思ふのであります、刑事政策と云ふことは要するに此の改善主義の刑法理論を徹底せしむることになるのであります、さうして刑の執行猶豫と云ふやうな制度が段段に發達しなければならぬことになりまするし、それに連れて今度は累犯に對する加重制度と云ふものが、段段巧妙に然るべく運用されねばならぬことになります、其の間に於て假出獄と云ふものが微妙な働きをするのであります、過つてと言つては惡うございますが、兎に角一定の刑罰を言ひ渡した時に、それが實際上重過ぎた時には假出獄の制度で之を調節すると云ふことになるのであります、此の我が刑法の假出獄の制度は「ヨーロッパ」諸國の刑法の制度に較べて非常に寛大に出來て居ります、「ドイツ」の學者が我が國の刑法の其の點に付て非難を致して居りまするので、私は論文を書いて、それを「ヨーロッパ」で發表致しました、我々は假出獄の制度に依つて、「ヨーロッパ」よりも寛大な仕組を持つて居ると云ふことに付て後悔をして居らぬ、統計は斯くの如しと云ふことを發表し、其の學者にもそれを送つたのでありました、さうして現に昭和六年に假釋放審査規程と云ふのが出來ました、又昭和八年に行刑累進處遇令と云ふ司法省令が出來ました、前のは司法省訓令であります、後のは司法省令、それに伴うて今日では行刑の實際が段段に發達して居る譯であります、そこで此の假出獄に付て一つ申上げて見たいことがあります、昭和六年の右の規定が實施せられることになりまして以來假出獄の數が非常に多くなつたのであります、而も假出獄をした結果が善いと云ふことになつたのであります、誠に假出獄は善政でありまするので、私は之を誇として外國人に對し論文を書いて見たことでありました、併しながら飜つて考へて見ますと云ふと、假出獄が斯樣に多く、而もそれが成功して居ると云ふことは、從來裁判所の言渡した刑が無用に所謂殘虐性を持つて居つたのではないかと云ふことを意味することになりまするのです、尚片方に於ては、我が國では累犯統計と云ふものが誠に面白くないのです、累犯が非常に多いのです、片方では累犯が多いと云ふことは刑が本當に嚴格に出來て居らぬ、社會保全の必要に應じて出來て居らぬ、又其の點に於て裁判所が少し緩んで居る、而も假出獄が非常に多いと云ふことは、裁判所が不當に重かつたと云ふことを示すものであります、それで此の際、一つ刑法に於ても改善主義の刑法理論と云ふものを、此の各個人の人格を尊重すると云ふ刑法改正案の原則に基いて何處かで之を明かにしたい、刑罰の殘虐なる刑罰は之を禁ずと云ふ位の外に何とか是は方法はないのでせうか、例へば最近の例としては「フランス」の第四共和國の憲法草案には教育刑の原則を掲げて居ります、之を何とか憲法の上で掲げることが出來ないものでございませうか、少くとも斯樣な精神は將來の刑法の改正の上には明かにせられなければならぬ所であります、是は斯樣に申しまするが、容易に實際家の容れる所にはなつて居りませぬ、學説に於ても反對があります、現に立法上此の點に付ての改正を當局に促しましたけれども、其の人々は、學説上色色議論のあるものは今俄かにそれを立法に現すことが出來ぬと、斯う云ふ譯で今日に至つて居ります、併しながら今日は、此の刑法改正案の下に其の學説上の爭を國家自ら直接に解決しなければならぬことになつて居るのでありますまいか、我々は立法上直接にそれを解決することが出來ませぬでしたから、昭和六年以來搦手の方に廻つて、假出獄の制度を促進することに依つて改善刑の目的を或程度迄今日全うすることが出來て居るのであります、併しながら假出獄と云ふやうなことは例外的の方法でありまするので、矢張り裁判所が刑罰を行ふ時に、刑罰を宣告する時に、矢張り此の教育刑の原則は、犯罪人の末に至る迄其の人格を尊重すると云ふ原則を設け仕事をしなければならぬ、さう云ふことが此の際此の憲法改正案に關聯して考はて戴いて如何なものでござりませうか、私共は嚴罰が社會生活の規律を嚴格に正さねばならぬものであると云ふことを忘れて居るのではござりませぬ、けれどもそれは一罰百戒に依つて全うせられるものではなく、眞に重かるべき者に重く、輕かるべき者に輕いと云ふ人格的の刑罰制度に依つて出來上るものと考へるのであります、私は此の司法「テロリズム」と云ふやうな言葉が世の中に擴まつて、我々の裁判の働きが不幸なる誤解を招いたに付ても、此の際法律上事を明かにすることが望ましいこととせねばならぬのであります、眞にそこのことは民法上諸國に例のあることを先程一言致しましたが、改善刑の原則に付ては「アメリカ」の「プリズン・アスソシェイション」の原則宣言即ち「デクラレイション・オブ・プリシプルス」と云ふものがあることを、申上げて置きたいと思ひます、是は「アメリカ」の「バア・アスソシェイション」と竝んで最も有力な法律家、社會事業家の團體であります、此の原則宣言は三十七條から出來て居るものでありまするが、其の第一條には刑罰は犯罪の故を以て犯罪人に科せられる苦痛ではあるけれども、其の犯罪人の改善を完うすべき特別な見地に於て科せられねばならぬものであるとあります、第二條には社會に依る犯罪人の處置は社會の保全の爲のものである、其の處置は犯罪と云ふ事實に對するよりも犯罪人に對して向けられるものであるから、其の目的は犯罪人の道徳的再生、「モラル・レヂェネレイション」でなければならぬ、監獄規律の最高の目的は犯罪人の改善であつて、報復的苦痛を科することではない、こんな風に出て居ります、第四條には、希望は恐怖よりも效果的なものである、「ホープ」は「フィア」よりも「モア・ポテント」であると書いて居ります、さうして第十三條に至つて社會の利益と受刑者の利益とは一致するものであり、現在の所では此の二つのものは互ひに爭つて居るやうであるけれども、受刑者を改善すると云ふ立場に立つに於ては、兩者は利害共同の關係に立つものである、斯う規定して居ります、第十五條に至つて刑は道徳的の力を以て執行せられねばならぬもので、有形の力は成るべく避けなければならぬものである、權力に依つて、良き受刑者「プリズナー」を作ることは出來るが、良き市民、「シティズン」は道徳的訓練に依つてのみ之を見ることが出來る、さうして監獄の吏員に向つて監獄の吏員は如何なる犯罪人と雖も結局之を改善することが出來るものであると云ふことの「コンヴィクション」を擲つてはならぬと、斯う規定して居るのであります、斯樣なものを直ちに我々の法律の中に受入れると云ふ譯には行きませぬけれども、併しながら斯う云ふものが、今世界の趨勢であります、國際刑務協會と云ふものがありまして、諸國で五年毎に入れ替りに國際會議を開いて、我が國も常に代表者を出すのでありまするが、其の會議の我々に齎して居る決議は皆斯樣な精神に依つて出來て居るものであり、今更改正憲法を俟つて初めて是が明かになる譯ではありませぬが、此の際我々は我々の學説で唱へて居る程度の古い衣を擲つて、新しく憲法の上に綺麗なものを一つ拵へて戴きたいと斯う思ふ次第であります、少くとも近く刑法が改正せられまするに於ては民法の劈頭に新規則が明かにせられると同じく、刑法の劈頭に改善刑の原則と云ふものが明かにせられねばなりますまい、斯樣な次第で、問題は更に訴訟法に移つて參ります、成るべく是も手短かに申上げることに致しませう(「簡單々々」と呼ふ者あり)誠に出來るだけ簡單に申上げようと思ひますが、事が民法、刑法の全面に亙るのでありまして、是はさう簡單には參りませぬです、而も憲法は、民法刑法に於て斯くの如き新たなる變革を齎すものであると云ふことの私の考が若し間違ひでないと思召し下さるならば、今暫く御辛抱を願ひたい、(拍手)訴訟法は今裁判所構成法と共に、改正憲法と共に非常に大きな影響を受けねばなりませぬ、今迄の訴訟法と云ふものは民事訴訟法の言葉を以て申しますれば、攻撃と防禦との爭ひとして組立られて居ります、攻撃と防禦とに依つて民事訴訟が出來て居る、其の民事訴訟法の理論と云ふものは、非常に緻密なもので煩瑣なものであります、理論的な其の意味と云ふものは、我々は專門家として十分之を認めますけれども、今信義誠實の原則と云ふことを訴訟法に及しますると云ふと、其の適用の結果は餘程新らしいものにならねばなりますまいと思ふのであります、さう云ふ所から先づ第一に問題となりまするのは、裁判所構成法の問題として、一方には最高裁判所と云ふものが設けられるのでありますが、他方には恐らく簡易裁判所と云ふものが設けられなければなりますまい、最高裁判所のことは姑く之を別に致します、今迄司法的「テロリズム」或は裁判的「フアッシヨ」の一つの現れは違警罪即決と云ふことになつて、さうして其の制度が濫用される、所謂盥廻しと云ふやうな現象を見て、如何にそれが殘虐性を持つて居るかと云ふことに付て今新らしく問題とされて居りますから、年來久しく問題となつた違警罪即決例と云ふものは今潔く抛たれねばなりませぬ、是は十分當局に於ても承知されて居ることと思ひます、其の違警罪即決即ち警察が拘留科料の裁判を言ひ渡すに代へて、今度は簡易裁判所と云ふものが出來なければなりませぬが、此の簡易裁判所と云ふものの組織はどう云ふ風になりませうか、是は法律家だけで宜いものか、殊に若い法律家だけで宜いものか、或は民間から常識の豐かな紳士を裁判官になつて貰ふと云ふやうな途を付けると云ふ工夫がどうかと云ふやうなことが問題になる譯であります、簡易裁判所は攻繋と防禦との錯綜に依る所の刑事訴訟法、民事訴訟法でやる所ではありませぬ、何處迄も健全なる常識に依つて裁判が進められねばならぬ譯であります、今迄の裁判所は謂はば封建主義のものでありました、之に對して本當に豐かな潤ひのある簡易裁判所と云ふものが出來ねばならぬ譯であります、此の簡易裁判所に於てはどう云ふ趣旨で裁判をするか、どう云ふ手續、考で裁判をするかと云ふことが劈頭第一に明かにせられねばなりますまい、此の間或席上で簡易裁判所の問題が起りまして、或司法部の係官が簡單迅速に裁判をするのを趣旨とすると云ふことを言明せられました時に、横に若い辯護士の皮肉な人が居りまして、是からは手短かに人を罰すると云ふことになるのですかと、斯う云ふ風に批評した人があります、先程の姦通罪の規定を削除すると云ふやうな場合と同じことで、簡單明瞭と云ふ言葉には無理はないのでありますが、常識的に簡單明瞭にと云ふ、「常識的に」と云ふ言葉を儉約されたのが誤解の因でありました、併しながら單純なぼんやりした常識ではありませぬ、何處迄も健全なる常識であります、其の健全なる常識に依つて、法律に依つて裁判をするのではありまするが、法律を超えて、公平に法律に依つて刑を言ひ渡すのでありまするが、何處迄も犯人の改善を目的として、拘留科料のやうな、百圓二百圓のやうな事件でも之を懇に、併しながら手短かに裁判すると云ふことにならねばなりませぬ、斯樣な原則は將來民事訴訟法一般、刑事訴訟法一般に及ばねばなりませぬ、併しながら法律の倫理化は家庭から始ると同じやうに、我々の裁判の何と申しまするか、新らしい行き方は簡易裁判所から手始めをする譯になります、此の簡易裁判所の劈頭に於て、民事に於ては公平に併し常識的に、刑事に於ては犯人の改善更生を目的として、是も常識的に手短かに罰する、斯う云ふやうな趣旨のことが此の簡易裁判所の規定の劈頭に規定せられて欲しいものと思ひまするが、出來るならばさう云ふ趣旨が憲法に既に現れて居ると云ふ風に願へたら非常に有難いことと思ひます、憲法改正案に於ける各種の刑事訴訟法の規定は非常に煩瑣なものであります、是は細目に付て議論を致したいと思ひまするけれども、此の席上では適當ではありますまい、今司法當局は法制調査會に於て刑事訴訟法の改正を進めて居られまするけれども、改正憲法との關係上、非常に大きな疑があるのであつて、現に委員會に於ける或決議の如きは、憲法の關係は之を除外して決議をすると云ふやうな意味合のことになつて居るのであります、細かいことは失禮ながら相當に專門的なることでありまするから、委員會に於て然るべく御審議があるべきではありませう、衆議院の其の點に付ての修正は周到でありませぬ、是はどこ迄も貴族院に於て專門家が十分に審議を盡さねばならぬ所でありまするが、其の點迄は此處では、此の席上での質疑では入りませぬ、斯樣な所から更に監獄法に迄事が及ぶ譯であります、刑の殘虐性は之を禁ずることになつて居ることが、監獄法の改正にどう云ふ影響を及すか、現在の監獄法と云ふものは監獄の事務規程であります、監獄の役人がどう云ふ風に事務を扱ふかと云ふだけのものになつて居りまするが、併しながら行刑法の中に此の刑罰執行の大理想を盛ると云ふことは、既に「ヨーロッパ」の立法例が我々に範を示して居る所であります、憲法改正案の審議に連れて、是はどうしても當局に於て此の際更に御考を願はねばならぬ所と信じます、そこでもう一つ御願ひ致します、それは裁判所の改革と云ふことに關聯を致しましてから裁判官の養成と云ふことが非常に大きな問題になりませうが、それと同時に裁判の外に、今簡易裁判所では恐らくは法律家でない裁判官が出來るやうに法制調査會の仕事では出來て居りまするが、其の他に調停制度と云ふものが段段進まねばなりますまい、又陪審法と云ふものがもう一遍考へ直されねばならぬ運命に差迫つて居るのであります、是等の素人裁判官と云ふやうな者は、一體どう云ふ所から常識の豐なさう云ふ人人を探し出して來ることが出來ませうか、是は要するに左翼にあらず、右翼にあらずと云ふ言葉を使つては穩でないかも知れませぬが、中流階級と云ふ所から人を探して來なければならぬ譯であります、此の中流階級を保全すると云ふことが斯樣にして問題になる譯であります、固より中流階級の保全と云ふことは裁判官だけの問題ではございませぬ、健全なる常識が此の世の中を支配する爲には、中流階級と云ふものがどこ迄もしつかりしなければなりませぬのであります、今日のやうな社會組織を此の儘にして置きますと云ふと、中流階級は漸次滅びさるを得ないやうなことになつて居ることは、尚健全なる家族制度が崩壞しつつあるのと趣を同じくするのであります、斯くの如くにして中流階級の保護保全と云ふことが憲法上の問題にせられねばならぬ筈と思ひ、既に他國の憲法には其の例を見るのでありますが此の憲法改正案の下に於ては、中流階級に對する配意、配慮關心の示されて居る何物もないやうに思ひますので、是は如何なものでございませうか、今度は裁判所に關聯してもう一つ問題を出して置きたい、それは英米法と考へられて居るやうな人身保護律の問題であります、非當時の數年の間、人身の自由と云ふものが甚だ危殆に差迫つたことがあつたのでありまするが、此の問題は今後も恐らく續くことであらうと思ひます、そこで固より刑事訴訟法に於て十分其の點が考慮せらるるのでありまするけれども、別に最高裁判所の取扱ふ問題としての人身保護の問題、英米法の所謂「ハベヤス・コーパス・アクト」の問題が我が國に於ても考へられて如何なものでございませうか、英米に於ては自由の保護と云ふことに付ては、裁判に關係し、司法に關係しては第一に陪審、第二「ハベヤス・コーパス・アクト」と、斯う云ふことになつて居りますので、陪審を英米れ範を取つて規定を設けた我が國としては、それは此の際多少の修正を施さねばならぬにしても、陪審は英米のものであります、人身保護律の關係に於ても官憲の濫用の場合の外、或は其の邊に誰やらがどうやらで軟禁されて居ると云ふやうな事柄が起つた時に、警察官の手でなく、檢事の手でなく、裁判所、「イギリス」に於ては「ハイ・コート」が之を取扱つて居るが、「ハイ・コート」、我が國で言へば是から設けられる最高裁判所に訴へると云ふ途を開く、固より英米の法制を其の儘輸入すると云ふことは出來ませぬけれども、我が國らしく之を改めることに依つて、人身保護の制度と云ふものを特に設けると云ふことが、此の際問題にせられて如何でございませうか、人身保護のことは「イギリス」で言へば、矢張り憲法の一條目と云ふことになりませう、兎に角之が出來るならば、或形に於て憲法上基礎が置かれることを希望する次第でございまするけれども、併し若し憲法に於てそれが設けられないと云ふことになりまするならば、憲法の精神を汲んだ所の將來の法律の改革として、其の問題も一つ當局に於て十分考へて戴きたいと思ひます、是は憲法草案の第三十條及び第三十一條、特に第三十一條に關聯する非常に重大な問題であると私は考へて居ります、不幸にも衆議院は此の點に付て何等の考慮をも拂つて居りませぬ、是で私の質疑を終りますが、唯序に小さなことではありますが、此の改正案を讀みながら、此の用ひられた言葉と文體とに付て聊か私の印象とする所を附加へることの御許を願ひたいと思ひます、此の改正案が憲法として成立するの日には、此の憲法は國語として標準的なものにならねばならぬ筈でございませう、併し政府は此の憲法の全文、即ち各條の規定が是で我が國の國語の用ひ方の模範的なものとして、使命を果し得るものと云ふことの覺悟がおありになるものと言つて、失禮ながら……御咎を蒙むらないことを御願ひ致したい、固より此の全文を讀みまして此の文章の心持として之を論ずるのでありますから、是で結構ではないか、又衆議院に於て或程度の修正を經ました、さう云ふ衆議院の或方の演説には誠に此の前文の如きは天下の名文であると云ふやうに賞讚をして贊成された方がありまするが、私としては不幸にして此の前文を讀みながら、少くとも先づ政府草案を讀んだ時に餘りに好い心持にはならなかつたのであります、内容に於て成る程好い心持になり得ない理由もありませうが、其の文章が其の滑らかさ、其の潤ひ、果して是で宜いものでございませうかと思ふのであります、處が飜譯として英文のものが我々に配付せられて居るのでありますが、飜譯の方を見ますると云ふと、ちよつと樣子が違ふ、私は英語をそんなに巧には致しませぬけれども、一通りは讀んで分る積りでありますが、英語の方で讀むと云ふと割に穩やかに理解の出來る所が、失禮ながらぎごちないやうな國語の用ひ方になつて居るのではないかと思はれるのであります、言ひ過ぎでありますならば當局としてどうぞ御宥恕を御願ひ致したいのでありますが、どうぞ一つもう少し國語のことに達者な方が何とか、之を中學校の教科書にし、小學校の子供に讀ましても納得するやうに模範とするやうに、さうして我々が之に從つて是からの文章を書くやうなことになるやうにして戴く譯には行きますまいか、それは文章全體の滑らかさ、潤ひと云ふやうな點の問題でありますが、又言葉の微細な使ひ方に付ても、何とか御考慮を仰ぐことが出來ないかと思ふものが相當に澤山あるのであります、例へば前文を第一に開いて見ますと云ふと、「政府の行爲によつて再び戰爭の慘禍が發生しないやうに」と書いてある、發生しないのは政府の行爲に依るのでせうか、どうもさうでないやうですな、さうすると云ふと是は「政府の行爲に依つて再び戰爭の慘禍が發生することがないやうに」斯う云ふ風に御書きを願ふ方が宜いのではないか、是では政府の行爲に依つてと云ふ、一つの「アドヴャービァル・フレーズ」、是が慘禍と云ふ名詞に掛つて居るので、どうも文法としては體をなさぬ書き方であると私は斯う考へます、それは英譯の方で見るとすらりと讀めるやうな氣が致しますので是は誤譯であるのか、うまく譯したのか、又第二條を見ますと「皇位は、世襲のものであつて、國會の議決した皇室典範の定めるところにより、これを繼承する。」とあります、「これを繼承する」と云ふのでありまするから、「サブジエクト」がなければ、文章にはなりませぬ、「皇位は、世襲のものであつて、國會の議決した」、其の「繼承」は「國會の議決した皇室典範の定めるところにより」と書くか、さうでなければ「皇室典範の定めるところにより承繼せられる」、斯う云ふ風に書かねば文章をなさぬ筈であります、英語の方を讀むと云ふと上手に出來て居ると云ふやうなことになります、是は皇位は何人が之を繼承するかと云ふことも、矢張り皇室典範で定るのですから、此の書き方では少くとも私は文法上どうであらうかと考へるのであります、斯う云ふやうな例が相當に拾ひ出せばあります、おうるさいでせうが、又是は本會議の質問で議論を願ふことでもございませぬ、委員會でそれぞれの專門家が適當におやりになることでございませう、又先程の政府原案二十三條で、「法律は」と書いたのが、英文で見ると云ふと「法律が」であるので、「が」の方が適りが宜いのであると云ふことを申しましたが、英文で讀むと云ふと、まあ大變なだらかになつて居り、是は先程も一言致しましたが、衆議院の修正案が然るべく處置して居ります、それから「國務大臣は、その在任中、内閣總理大臣の同意がなければ、訴追されない。但し、これがため、訴追の權利は、害されない。」とあります、「これがため、」「されない」のぢやない、「これがため、」「されることがない」のであります、之も之では書きやうがどうかと思ひます、もう一つ重要な點と致しましては、先程財産權に關する規定の所で、「私有財産は、正當な補償の下に、これを公共のために用ひることができる。」とあります、「用ひる」と云ふ言葉では少し狹い、農地調整法に關聯して考へても、此の言葉では不十分ではないかと申しましたが、之も英語で讀みますと云ふと、「用ひる」と云ふ所が「テークン」と云ふ字が使つてあります、さうすると是は誤譯ですね、「用ひる」と云ふのとは大分違ふのではないか、之もどうも英語に堪能な方の御教へを受けなければなりませぬが、英語を讀んですらすらと讀めるやうに思ひまする點が、案外本文の改正案に付て見ると云ふと、却て疑問を生ずると云ふやうなことがあるのは、或は私の不敏の致す所であることでありませうが、餘り斯う云ふ席上で申上げると云ふことは、誠に畏いことでありまするけれども、尚一つ御考を願ふことが出來れば幸に存じます、又政府原案第十一條の權利の濫用に關する規定でもさうであります、「國民は、これを濫用してはならないであつて、常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負ふ。」「のであつて、」と云ふ日本語はどう云ふ意味のものでありませうか、私の理解する所では、「國民は獨りこれを濫用してはならないのみならず、更に進んで公共の福祉のために利用する義務を負ふ」、斯ふ云ふやうに先づ消極的にものを云つて、然る後にそれを積極的に展開した趣旨のものであらうと思ひます、英語で讀むとさうなつて居ります、英語で讀むと「アンド」と云ふ字でそこを續けてありまするから、ははあと思ふのでありますが、日本語で「のであつて」、と云ふ日本語は、私は田舍者でありまするから、折折此の都の洗練されたる言葉に通じませぬのでどう云ふことになるか知りませぬが、「のであつて」、と云ふことは、斯う云ふ場合には用ひないやうに心得まするが、如何なものでありませうか、其の他もう一つ、是は餘程遠慮して申上げねばならぬことでありまするが、「戰爭の抛棄」と云ふことが、是で國語として意味を爲すでございませうか、戰爭と云ふ言葉に依つて、普通我々が考へることが、「戰爭の抛棄」と云つてそれで意味を爲すか、英譯の方を見ますと云ふと、國民の主權的權利としての「ウオー」「ソヴェレント・ライト・オヴ・ザ・ネーション」と、斯う書いてあるのですから、そこで「ウオー」の抛棄と云ふことが意味を爲すやうに思ひますが、日本語で戰爭とやつた時に、戰爭を抛棄する、分らぬこともないやうですな、皆さん御使になつて居るから、私も使ひます此の頃は…是で宜いであらうと思ひますがどうか、併しながらまあ抛棄と云ふやうなことを離れて實體的に議論をすれば、更に進んで我々は、戰爭を否定すると、斯う云ふ處迄行つて抛棄以上の力強い言葉を用ひると云ふことが出來ないものでございませうか、先程弊原國務大臣が文明が戰爭をなくするか、戰爭が文明をなくするか、斯う云ふ關係に今立つて居ると仰せられた、其の御言葉が私は非常に名言であると思ひます、さうして我々は其の一つの意氣込の下に戰爭の抛棄をするなら、我々が戰爭を抛棄するなどと云ふ弱い言葉でなくて、戰爭と云ふものそれ自體を否定すると云ふやうな處迄行くと云ふ勇氣はないものでございませうか、又先程此の刑罰は苦役である、苦役と云ふやうな字、苦役と云ふやうな字はまあ是は法律で使つて使へないこともないでございませうが、英譯では「サービチュード」と云ふ字が使つてあります、「サービチュード」、是で分ります、「イギリス」の本を少しばかり讀んで居る私達はなだらかに讀んで行かれるやうに思ひますが、日本の憲法に苦役と云ふやうな言葉が使つてあると、何だかどうも土足で座敷へ上つたやうな心持がせられるやうに思ひまするし、又政府原案の第二十五條の第三項に兒童の酷使と云ふ言葉が用ひてありまするが、英語に之を飜譯した人は「エキスプロイティション」と云ふ文字を使つて居ります、成る程「エキスプロイティション」と云ふ文字を使ふ方が兒童問題に關する本當の意味を現すもので、我々の國語の酷使では足りませぬと思ひます、陸海軍、空軍は之を保持してはならないと云ふ文句、是は衆議院で修正しました、戰力は之を保持しないと云ふのでありますから、是はもう私が申述べることはありませぬが、英譯の方には戰力の保持は許されない、斯う云ふ風に素直に出來て居ります、文章其のものが文化國家の憲法に相應しい氣力と滑かさとを缺いて居ると云ふことが此の憲法の改正案に付て言ひ得ることではないか、甚だ私の立場としては自分を顧みない言葉でありまするけれども、御急ぎの間の立案であつたとは言へ、憲法は尊重せられ擁護せられねばならぬものであつて見ると云ふと、此の憲法の用語、文體と云ふものはもう少し一つ洗練されて然るべきものではありませぬか、即ち汚れたる古い衣を抛つたのであります、新しい衣を我我が身に纏うたことになれば、其の新しい衣は矢張り寒さ暑さを凌ぐばかりでなく、我々の體に相應しく上手に縫針が出來て居ると云ふことを希望すべきではありますまいか、(拍手)私は此の憲法の成立した曉に於て國民が、さうして學校の子供が快く此の憲法に用ひられて居る所の言葉と文章を受入れられるかどうか、憲法に對する反抗が憲法の用語と文體とに先づ始ると云ふやうなことがあるならば憂ふべきことであらうと思ふのであります、政府は之を國語として果して模範的のものと考へて居られるのであるか、まあ是で模範的なものであると仰つしやれば、それ以上議論することはありませぬけれども、憲法は、繰返して申します、我々の國民の經典であり、國民の教科書であると云ふことを考へねばなりませぬ、失禮致しました(拍手)
――――◇―――――発言のURL:https://teikokugikai-i.ndl.go.jp/simple/detail?minId=009003242X02419460827&spkNum=27
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028・徳川家正
○議長(公爵徳川家正君) 御諮りを致します、帝國憲法改正案審議に要する定足數を缺く虞れがございますから、只今の牧野君の質疑に對する政府の答辯竝に爾餘の通告者に依る質疑は明日に讓りまして、此の際議事日程を變更し、日程第二以下を議題と致したいと存じます、御異議ございませぬか
〔「異議なし」と呼ふ者あり〕発言のURL:https://teikokugikai-i.ndl.go.jp/simple/detail?minId=009003242X02419460827&spkNum=28
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029・徳川家正
○議長(公爵徳川家正君) 御異議ないと認めます
――――◇―――――発言のURL:https://teikokugikai-i.ndl.go.jp/simple/detail?minId=009003242X02419460827&spkNum=29
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030・徳川家正
○議長(公爵徳川家正君) 日程第二、「電氣事業法の一部を改正する法律案」、日程第六、「石炭及こーくす配給統制法の一部を改正する法律案」、政府提出、第一讀會の續、委員長報告、是等の兩案は同一委員に付託せられましたのでありますから、日程の順序を變更し、一括して議題とし、委員長の報告を求めたいと存じます、御異議ございませぬか
〔「異議なし」と呼ふ者あり〕発言のURL:https://teikokugikai-i.ndl.go.jp/simple/detail?minId=009003242X02419460827&spkNum=30
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031・徳川家正
○議長(公爵徳川家正君) 御異議ないと認めます、委員長八代男爵発言のURL:https://teikokugikai-i.ndl.go.jp/simple/detail?minId=009003242X02419460827&spkNum=31
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032・会議録情報4
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電氣事業法の一部を改正する法律案
右可決すへきものなりと議決せり依て及報告候也
昭和二十一年八月二十三日
委員長 男爵 八代五郎造
貴族院議長 公爵 徳川家正殿
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石炭及こーくす配給統制法の一部を改正する法律案
右可決すへきものなりと議決せり依て及報告候也
昭和二十一年八月二十四日
委員長 男爵 八代五郎造
貴族院議長 公爵 徳川家正殿
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〔男爵八代五郎造君登壇〕発言のURL:https://teikokugikai-i.ndl.go.jp/simple/detail?minId=009003242X02419460827&spkNum=32
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033・八代五郎造
○男爵八代五郎造君 大分時間も經ちましたので、成るべく簡單に御報告申上げたいと存じます、只今議題に供されました「電氣事業法の一部を改正する法律案」外一件に付て特別委員會に於ける審議の經過竝に結果を御報告申上げます、本委員會は去る八月十四日より二十四日に至る迄前後九囘に亙つて之を開催し、仔細に檢討を加へ、愼重審議を行ひました結果、政府原案通り可決すべきものなりと決定致しました次第でございます、委員會は最初に先づ商工大臣より提案理由の説明、續いて政府委員より法律案の逐條的説明を聽取致しましたが、是等の内容は此處では省略することに致しまして、質疑應答の主なるものに付きまして御報告申上げます、順序と致しまして電氣事業法の方を先に申上げます、先づ第一に今後の電氣事業に關して其の組織竝に運營に對する政府の方針如何、又東京都其の他公共團體に依る電氣事業經營に對する政府の所見如何、又電力の國營問題に關する政府所見如何等、電氣事業全般の企業形態に關する質問がございました、之に對しまして商工大臣及び政府委員より我が國の地勢の特質に鑑み本州中央部に集中して居る水力を最も合理的に開發し、運營して、發電用石炭の節減、之を圖ることの爲に發電及び送電に關しては日本發送電會社のやうな單一の機關に依つて行ふことが最も適當であり、又配電に付ても配電事業の合理的運營と云ふ見地から配電會社の形態は配電統制令廢止後と雖も現在のやうな形で以て存續して行く必要がある、又公營問題に付ては經營の規模、設備の復舊、資材の節約、電力配給の合理化、農村電化の促進等の見地から、之が實施には多大の疑問があり、今後の電氣事業全體の合理的運營と云ふ要請にも逆行するやうな感じがする、又國營問題に付ては今日の情勢に於ては國營に準ずる現在の國家管理の方式が適當であると考へる、又電氣事業は肥料、石炭に比較して一層國營に適するものと考へられるので、今後は十分に研究することとしたい、尚以上の如き將來の電氣事業の組織運營の問題に付ては、今囘の改正案の中に織込まれて居りまする電氣委員會が設定され、ば此の委員會に於て十分に調査審議して、具體的な結論を得たいと考へて居ると云ふ答辯がございました、第二點と致しまして、今後の料金政策及び補給金制度を如何やうにするかと云ふ質問がございました、之に對しまして商工大臣及び政府委員より、公益事業たる性質に鑑み極力低廉にしたいと思ふが他面企業として成立せしむる必要もあるので、企業の利潤、國民の負擔の兩者を比較考慮して合理的に決定したいと云ふ考である、併し最近の物價騰貴の趨勢に鑑み、將來に於て現行の料金は是正を要するかも知れぬ、又補給金制度を今後存續せしむるかどうかと云ふことに付ては、經濟安定本部に於て研究することとしたいと云ふ答辯でございました、第三點と致しましては、經濟の再建、失業對策として電源開發を積極的に行つてはどうか、政府は之に對してどう云ふ計畫があるかと云ふ質問でございました、之に對しまして商工大臣から電源開發の隘路は「セメント」である、而も其の「セメント」は石炭と云ふ隘路があつて、從つて一方に於て極力之が増産を圖ると同時に目下石炭の輸入を其の筋に懇請して居るが、幸に是が受入れられて多少の餘裕が出來れば極力「セメント」に廻して、速かに電源の開發に著手したいと云ふ答辯がありました、續いて政府委員よりは開發計畫に付きまして相當詳細な説明がありましたが、大分數字的のことがありますので、此處では省略致しまして、速記録に讓ることに致します、第四點と致しましては、周波數統一の問題でありますが、周波數統一と云ふのは長い間の懸案であり、今が最も絶好の機會であるから直ちに著手してはどうかと云ふさう云ふ質問でございました、之に對しまして政府委員からは周波數統一準備調査委員會と云ふ委員會がありまして、之に諮問しました結果答申を得まして、約十二億圓の經費とそれから五年の歳月を費して、之を實現したいと云ふ計畫である、今年が其の準備の期間であると云ふ答辯でありました、其の周波數は五十「サイクル」と六十「サイクル」とありますが、六十「サイクル」に統一する方針である、斯う云ふことでありました、第五點と致しましては、最近に於ける停電其の他の電事事故の復舊に關し、配電事業の「サーヴィス」が非常に低下して居る、之を政府はどう對策を講じて行くのかと云ふ質問がございました、之に對しまして商工大臣及び政府委員から最近の配電事業の「サーヴィス」低下は頗る遺憾であり、政府としては機會ある毎に此の點に關して業者に警告を發して居るが、根本の點は資材の不足、從業員の心構であつて、今後は變壓器其の他配電設備の増産に一層力を拂ひ、從業員に對しましては公益事業であると云ふことの衿持を以て其の職に當ること、又待遇を相當に改善すると云ふやうなことを萬事相談づくで以て話を進めて、公益事業の本來の面目を發揮するやうに努力すると云ふ答辯でございました、第六點と致しましては、電力の需給状況及び電力制限の具體的方法はどうであるかと云ふ質問でございました、之に對しまして政府委員から最近の電力需要の激増に關する説明がありまして、今年の冬に於ては渇水の程度、發電用石炭の入手状況に依つて相當制限をしなければならぬと云ふ説明がございました、現に此の委員會を將にが終らむとする日に、一部の電力消費制限を發令されたのであります、其の發令された翌日相當の降雨がありまして、其の發令を延期すると云ふことになりまして、一安心すると云ふやうな形でございます、又此の制限に付きまして色々と研究の結果特に重要な産業及び家庭用の電氣は出來るだけ制限の外に置きたい、斯う云ふ風の考であると云ふことでございました、其の他戰災設備の復舊、農村電化、電氣委員會の運用、社債及び罰則等に關して頗る熱心な質疑應答がありましたのでありますが、是等は總て速記録に讓ることに致します、斯樣に致しまして討論に入り、一委員より本案に付ては贊成ではあるが、罰則は他の法規との均衡を將來考慮するやうにしたいと云ふ希望を添へて贊成がありました、續いて一委員より配電事業の「サーヴィス」向上等に關し、政府の善處を要望して本案に贊成する旨の發言がありました、又一委員より今後の電氣事業の運營に付ては統制に依る缺陷を除却して、眞に公益事業の模範たらしむるやうに努力を希望すると云ふ意味のことを添へて贊成せられたのであります、斯樣に致しまして採決に入りました處、全會一致本案は政府原案通り可決すべきものであると決定致しました次第であります、次に「石炭及こーくす配給統制法の一部を改正する法律案」之に付て申上げます、是も初めは商工大臣の提案理由の説明、後に政府委員の逐條的説明が詳細に行はれました、其の要旨は戰後の産業再建の事態に即應する爲に石炭及び「コークス」の配給統制機關である所の日本石炭株式會社の運營を民主化する目的を以て其の社長及び重役を株上總會の選擧に俟つこと一般の諸會社と同樣とし、社長の原案執行權を削り、監理官制度を廢止する等戰爭中の軍國的色彩を拂拭し、又實際運營に當ては下請會社を指定する權限を會社に附與して、事業の圓滑を圖つたものであります、以下質疑應答の主なるものを申上げます、第一に、石炭の生産配給及び輸送の實情竝に之に伴ふ諸種弊害の防止、是等に對する措置は如何であるかと云ふ質問がありました、之に對しまして政府委員より、生産及び配給に關し執つて居る從來の施策竝に將來の見透しに付て詳細説明がありまして、日本石炭株式會社の運營に關してもそれぞれ善處すべき旨の答辯がありました、第二に、石炭は巨額な價格調整補給金を使つて居るのであるが、増産の見地から政府の深甚な考慮を希望する、勞務者に對する能率的の賃金制を採用すると併せ、之が生産意欲を刺戟向上せしむべき施策に關してどう云ふ風なことを考へて居るかと云ふ質問に對しまして、政府委員より、其の趣旨を了承しまして、目下其の對策に付て折角立案中であると云ふことであります、大體九月中を一轉機として石炭の増産を向上させると云ふ答辯でございました、第三に石炭消費の合理化及び各動力資源の綜合利用に付て方策が立つて居るかどうか、具體的に申しますると、石炭を單に燃料として燃して居るのは如何にも惜しいではないか、石炭本來のまだまだ利用すべき要素が澤山にあるではないか、之を單に燃してしまふと云ふことは、石炭不足の今日甚だ惜しいことであるから、之に對して何か方策を立てて能率を上げると云ふやうな考はないかと云ふことでありました、之に對しまして商工大臣から、關係各方面の智能を動員して折角研究を進めて居る、まだ成果は擧らぬけれども、さう云ふ方向に向いて居ると云ふ答辯でありしまた、其の他炭礦勞働爭議の模樣、勞務者の補充の状況、亞炭及び「コークス」増産對策に付て色々の質問がございまして、一々政府委員から丁寧な説明がございましたが、是等は總て速記録に讓ることに致したいと思ひます、一般的の質問を終りまして、更に逐條的の質疑を行ひ、是亦一々政府委員から詳細な説明を得ました、質疑を終りまして、討論に入りました處が、一委員から、石炭は實に巨額なる補給金を與へて居る現状に鑑み、本改正案の趣旨を十二分に發揮し得るやう善處せられたき旨希望を附して本案に贊成する旨述べられました、又一委員よりは、日本石炭株式會社の機構の民主化は本案だけでは物足らぬ感じがする、其の他尚不十分と思はる、點も多々あるから、是等は將來の整備を期して載きたい、さう云ふ希望を附して本案に贊成すると云ふ意見がございました、斯樣にして討論を終り、採決に入りました處、全員一致本法律案は政府原案通り可決すべきものと決定致しました、以上極めて簡單でございますが、兩案の委員會の報告を申上げました発言のURL:https://teikokugikai-i.ndl.go.jp/simple/detail?minId=009003242X02419460827&spkNum=33
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034・徳川家正
○議長(公爵徳川家正君) 別に御發言もなければ兩案の採決を致します、兩案の第二讀會を開くことに御異議ございませぬか
〔「異議なし」と呼ふ者あり〕発言のURL:https://teikokugikai-i.ndl.go.jp/simple/detail?minId=009003242X02419460827&spkNum=34
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035・徳川家正
○議長(公爵徳川家正君) 御異議ないと認めます発言のURL:https://teikokugikai-i.ndl.go.jp/simple/detail?minId=009003242X02419460827&spkNum=35
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036・西大路吉光
○子爵西大路吉光君 直ちに兩案の第二讀會を開かれむことを希望致します発言のURL:https://teikokugikai-i.ndl.go.jp/simple/detail?minId=009003242X02419460827&spkNum=36
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037・植村家治
○子爵植村家治君 贊成発言のURL:https://teikokugikai-i.ndl.go.jp/simple/detail?minId=009003242X02419460827&spkNum=37
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038・徳川家正
○議長(公爵徳川家正君) 西大路子爵の動議に御異議ございませぬか
〔「異議なし」と呼ふ者あり〕発言のURL:https://teikokugikai-i.ndl.go.jp/simple/detail?minId=009003242X02419460827&spkNum=38
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039・徳川家正
○議長(公爵徳川家正君) 御異議ないと認めます
――――◇―――――発言のURL:https://teikokugikai-i.ndl.go.jp/simple/detail?minId=009003242X02419460827&spkNum=39
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040・徳川家正
○議長(公爵徳川家正君) 兩案の第二讀會を開きます、御異議なければ全部を問題に供します、兩案全部委員長の報告通りで御異議ございませぬか
〔「異議なし」と呼ふ者あり〕発言のURL:https://teikokugikai-i.ndl.go.jp/simple/detail?minId=009003242X02419460827&spkNum=40
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041・徳川家正
○議長(公爵徳川家正君) 御異議ないと認めます発言のURL:https://teikokugikai-i.ndl.go.jp/simple/detail?minId=009003242X02419460827&spkNum=41
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042・西大路吉光
○子爵西大路吉光君 直ちに兩案の第三讀會を開かれむことを希望致します発言のURL:https://teikokugikai-i.ndl.go.jp/simple/detail?minId=009003242X02419460827&spkNum=42
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043・植村家治
○子爵植村家治君 贊成発言のURL:https://teikokugikai-i.ndl.go.jp/simple/detail?minId=009003242X02419460827&spkNum=43
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044・徳川家正
○議長(公爵徳川家正君) 西大路子爵の動議に御異議ございませぬか
〔「異議なし」と呼ふ者あり〕発言のURL:https://teikokugikai-i.ndl.go.jp/simple/detail?minId=009003242X02419460827&spkNum=44
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045・徳川家正
○議長(公爵徳川家正君) 御異議ないと認めます
――――◇―――――発言のURL:https://teikokugikai-i.ndl.go.jp/simple/detail?minId=009003242X02419460827&spkNum=45
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046・徳川家正
○議長(公爵徳川家正君) 兩案の第三讀會を開きます、兩案全部第二讀會の議決通りで御異議ごさいませぬか
〔「異議なし」と呼ふ者あり〕発言のURL:https://teikokugikai-i.ndl.go.jp/simple/detail?minId=009003242X02419460827&spkNum=46
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047・徳川家正
○議長(公爵徳川家正君) 御異議ないと認めます
――――◇―――――発言のURL:https://teikokugikai-i.ndl.go.jp/simple/detail?minId=009003242X02419460827&spkNum=47
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048・徳川家正
○議長(公爵徳川家正君) 日程第三、所得税法の一部を政正する等の法律案、日程第四、臨時租税措置法を改正する法律案、日程第五、地方税法及び地方分與税法の一部を改正する法律案、政府提出、衆議院送付、第一讀會の續、委員長報告、是等の三案を一括して議題と爲すことに御異議ございませぬか
〔「異議なし」と呼ふ者あり〕発言のURL:https://teikokugikai-i.ndl.go.jp/simple/detail?minId=009003242X02419460827&spkNum=48
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049・徳川家正
○議長(公爵徳川家正君) 御異議ないと認めます、委員長周布男爵発言のURL:https://teikokugikai-i.ndl.go.jp/simple/detail?minId=009003242X02419460827&spkNum=49
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050・会議録情報5
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所得税法の一部を改正する等の法律案
右可決すへきものなりと議決せり依て及報告候也
昭和二十一年八月二十六日
委員長 男爵 周布兼道
貴族院議長 公爵 徳川家正殿
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臨時租税措置法を改正する法律案右可決すへきものなりと議決せり依て及報告候也
昭和二十一年八月二十六日
委員長 男爵 周布兼道
貴族院議長 公爵 徳川家正殿
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地方税法及び地方分與税法の一部を改正する法律案
右可決すへきものなりと議決せり依て及報告候也
昭和二十一年八月二十六日
委員長 男爵 周布兼道
貴族院議長 公爵 徳川家正殿
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〔男爵周布兼道君登壇〕発言のURL:https://teikokugikai-i.ndl.go.jp/simple/detail?minId=009003242X02419460827&spkNum=50
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051・周布兼道
○男爵周布兼道君 只今議題に上りました所得税法の一部を改正する等の法律案外二件の特別委員會の經過竝に結果に付きまして御報告申上げます、此の三案は八月十五日衆議院より受領、十六日委員付託となりまして、十七日正副委員長の互選後、直ちに會議を開きまして、藏相及び内相よりそれぞれ提案理由の説明を聽取致しました、連日六囘に亙り愼重審議を重ね、八月二十六日の午後採決を致しましたる結果、全會一致を以ちまして原案通り可決に相成つたのでございます、提案の目的及び内容に付きましては、過日本會議場に於て大臣より御説明がそれぞれございましたが、其の重要なる點に付きまして私は申上げたいと思つたのでございまするが、時間の關係上、遺憾ながら之を省略致しまして、唯左の二點に付てだけ申上げて置きます、政府提出案にありましては、平年度に於て二十九億七百餘萬圓、初年度の昭和二十一年度に於ては、二十四億五千百餘萬圓の増收見込でありましたのを、衆議院に於ける遊興飮食税の免税點引上げの修正に依りまして、平年度に於て一億三千百餘萬圓、初年度たる昭和二十一年度に於きまして六千五百餘萬圓の減收となる譯であります、此の修正に對しまして、政府は之を尊重するとの言明がございました、尚遊興飮食税が修正になりました結果と致しまして、配付税の減收額を入場税及び遊興飮食税に對する配付税の繰入れ割合及び分與割合の變更に依つて補填せむとするとのことでありました、次に質問に移りまして、其の主なるものを御報告申上げます、先づ委員より本法案を立案するに際し、財産税の徴收、金融機關經理應急措置案及び會社經理應急措置案、是等を考慮の中に入れたか、所定税金徴收の見込はどうであるかと云ふ質問に對しましては、政府としては、財産税は考慮に入れたが、金融措置、會社經理措置は考に入れては居らなかつたが、假令此の二案が實施されても、歳入に大きな狂ひを生ずるとは思はれない、直接此の影響を受けるものとしては法人税があるが、それとても昭和二十一年度分は十數億圓より見込んで居らぬし、多くは一二年度前の事業年度のもので、未だ決定を見ない法人もあるから、十分徴收は擧げられる見込であるとの答辯でありました、次いで一委員より、立案に當り經濟界の状況、物價の騰貴、負擔の權衡、國民の負擔能力、國民所得の目標を立て、それに基いたものであるかどうか、近き將來に於て根本的に税制改革を行ふと云ふことであるが、財政の基礎を鞏固にする爲に、増税の必要を認め、税制に根本的に改正を加へ、負擔の均衡を圖ると云ふ趣旨なりやとの質問に對しましては、立案當時は、財産税徴收後の國民の擔税力の正確な把握は出來なかつたが、此丿際國民に出來るだけの負擔をして貰はうと云ふので研究を進め、税制の根本的改正は次の機會に讓り、財産税との關係で、今囘は是非必要と思はれる範圍内に止めたとのことでありました、今後は財産税との關係からも高額資産者は減少すると思ふが、小額資産者には財産税は餘り掛らぬので、其の方面に相當負擔能力は殘されて居ると考へる、税制の根本的改正と云つても、所得税中心の税制に根本的改革を加へる餘地は少い、戰時中の増税に付ては改正を加へ、直接税、間接税の均衡を圖り、國民の擔税力を見究めて税率の決定をしたいと考へると云ふ答でありました、又一委員よりは、來年度は相當歳入不足を生ずると思はれる、特に戰時中、國費の使用が放漫に流れ、歳出の節約を餘り考へぬ傾きがあるが、此の際行政各部門に亙り、歳出の引き緊めを徹底せしめる必要があると思ふ、來年度の豫算中には、本年度に比して經費の増額になる科目はないか、本年度の赤字に對しては財産税の徴收に依つて賄ひ得るも、來年度に於てはどうしても租税收入に頼らねばならぬことと考へるが、政府は來年度豫算編成には如何なる方針を以て臨まれるやとの質問に對しまして其の答は、本年度の豫算中約半分は本年度限りの經費で、其の主なるものとしては、在外同胞の引揚の費用、進駐軍將兵の兵舎、家族の宿舎の建設費等で、來年度は相當に歳出の減少する見込である、明年度の豫算の收支が償ふかどうかに付ては言明出來ぬが、今日の情勢に於ては多少の赤字は已むを得ぬと考へて居る、明年度豫算中増加するものありとすれば、進駐軍費を別とすれば、失業救濟事業費と考へられる、國内的經費としては、それ以外に非當に増額するものありとは考へられぬが、問題は賠償物件が確定した時に、それの解體輸送に要する經費がどの位の額に達するかである、非公式ではあるが、商工省あたりの計算に依れば、百億圓に上る見込であるが、此の點に關しては司令部の方面でも、餘り日本の財政の負擔にならぬやう、其の爲に多くの失業者を出さぬやうに考慮されて居ると聽いて居るが、此の點が心配であるとのことでありました、又一委員より、政府は日本の税率は外國に比しても高過ぎることはないとのことであるが、此の儘で推移すれば、日本の中産階級は是以上の増税には耐え得られぬのみならず、沒落の外はないと思ふ、財政の緊縮を圖り、行政費の節約を行ひ、國民の負擔の輕減を圖ることが是非必要である、又國債の利拂に付ても考慮の餘地はないか、軍需補償の打切りと關聯して、何も三分半を維持する必要はないと思ふ、例へば「コンソル」公債にするとか、一分か二分半の利率で五十年百年の長期公債に借り替へることも、一つの解決策なりと考へる、更に聯合軍の駐屯も是は世界平和の爲であり、其の經費を日本だけが負擔するにも及ぶまい、此の點に付て聯合軍に交渉を進めることは、一面に於て「インフレ」防止の意味にもなると考へるが如何と云ふ問に對しては、行政整理は一つ根本的に考へて見たい、國債利子の引下は公債の九割何分迄が金融機關の手持になり、預金の見返りとして所有されて居る現状としては、直ちに英國のやうに「コンソル」公債と云ふ譯にも行かぬ、利率の一分引下は郵便貯金の利拂、國債の價格低下、銀行資産の關係より困難であり、事實國債の打切、利子の引下は預金整理の問題に關聯し、殊に補償打切に伴ふ預金整理の見透しもつかぬ爲、事實上手が付け兼ねる、進駐軍の經費は前内閣時代に削減ぶして貰つて居るが、今後も出來れば更に削減して貰ひたいと考へて居るとの答でありました、又次の質問は、昭和二十一年度の所得税の査定に當り、所謂闇所得者に對する課税には寛やかにして、眞面目な所得者に對する課税の方は苛酷に失するものがあつたが、今後は如何にして公正を期する考か、最近農漁村方面に新圓が滯留して居るが、之に對しては如何に課税を爲す方針でありや、第三國人の間に相當多額に上る新圓が集中されて居るが、此の方面にも課税する意向はなきやとの問に對しては、當局は昭和二十一年度の査定は、實際の所得に對して課税して居る、昨年度は米價の値上り、野菜の自由販賣に依り農村に於ける所得は非常に増大して、二十年度の査定額十九億圓に比し二十一年度は九十三億圓に上つて居る、之に依り相當に農村の所得を捕捉つ得たと考へて居る、唯例外的に苛酷なものもあつたので、之に對しては至急訂正を加へたのである、漁村も二十年度一億七千萬圓、二十一年度七億二千萬圓にて、是亦相當に捕捉出來たと思ふが、今日の状態としては、職員の手不足、質の低下の爲に、課税の適正を期し得ない憾みがある、又第三國人に對する課税も、今では課税方針も定り、實施の運びに至つて居るとの答であります、次は今囘の改正に依り、年額三萬圓の所得者に對しては五割強、五萬圓の所得者は六割強、十萬圓に七割強の課税になつて、増税の餘地はないやうに思はれるが、將來更に増額する積なりやと云ふ質問に對しまして、政府は、今次戰爭中に於ける累次の増税の爲、所得税の負擔は過重になつて居ると思ふが、直接にはまだ増税の餘地ありと考へる、一萬圓より十萬圓程度迄の所得に對しては、外國に較べて尚高過ぎるとは思はれない、敗戰後の日本として、増税の餘地なしとは言へないとの答辯でありました、次に、戰爭に基く資材、資産の減損、生産設備、私有財産の減少、賠償に依る生産減と共に、地方復興費、物價高に依る生活費の昂騰を考へると、國民の擔税力は頗る貧弱なりと思ふ、納税に當つては、預貯金を之に振當てる必要があると思ふが、第二封鎖の預貯金を充當せしめることは出來ざるや、今日社會の不安定は、食糧事情に基因するもの大なりと考へるが、幸に本年度の農作物の作柄は良好であるから、食糧の増配を行ひ、民生の安定、生産の増強を圖る意思なきや、今日肥料行政の多元化が肥料増産に一大支障を來して居るが、「インフレ」防止の爲にも生産増強を圖らねばならず、食糧増産の意味からしても之を一元化することは出來ぬものか、石炭事情は現在如何になつて居るかとの問に對しましては、戰爭の損害に基く擔税力の減少の半面に、物價騰貴に依る資産の増加所得額の増大があるから、昨年度より三十數億圓程度の増收は負擔力ありと考へる、石炭には思切つて補給金を出し、十月迄には何でも増産をさせる、八月中に計畫を樹て、計畫生産に依り達成する考である、食糧は今年の十一月より始る食糧年度より増配したいと考へ準備を進めて居る、成るべく早い機會に食糧の基準量の引上げを發表したい、肥料行政の一元化は經濟安定本部も發足するし、關係各省間に於ても緊密なる連絡を取り、増産を實現したい、人を動かすものは食糧であり、機械を動かすものは石炭であるから、石炭の生産は年産二千三百萬「トン」を確保したい、併しながら製鐵用石炭は國内に産出なく、輸入に俟たねばならないので、目下司令部に懇請中であるとの答でありました、次に所得税法に於て重要物産の製造、採礦又は採取を業とする個人に對しては免税の規定があるが、鑛區税、登録税の引上げられた理由はどうであるか、國内事情よりも、生産増強の爲にも、寧ろ奬勵されて然るべきものではなからうかとの質問に對しましては、税制の見地より生産増強に支障を來さない程度に増税をしたのである、鑛區税は明治三十八年以來數次に亙る増税に際し、生産の點を考慮し、今日迄据置かれて居るので、他税との均衡上三倍程度に、又登録税も左程上げて居らぬとのことでありました、次で多年に亙り地租、營業税、家屋税等の地方移讓が問題になつて居るが、技術的に困難なる理由でもあるのかとの問に對しまして、地方に移讓出來ぬことはない、今後地方自治の發達に依つては無論移讓しても差支ないのであるとのことでありました、更に一委員は府縣民税が新設され、市町村税が増額となつた結果、國税とは別個に賦課が行はれるとすれば、負擔の公平を缺くばかりでなく、場合に依つては所得額以上の負擔を擔ふ虞はないものであらうかとの質疑に對しまして、大體に於て終戰後の地方團體は財源に苦しみ、今日迄は地方分與税の増額で急場を凌いで來たが、是れ以上は困難なる事情もあり、地方團體の財政のやり繰りが分與税補助金に依存する爲に自主性を持たず、地方自治の強化の目的からも、財源的にももう少し自主性を持たせると共に、他面個人の所得を國税だけでは捕捉し難いので、地方税を相當賦課することは上述の要求にも應ずるものであると考へ、從來の制限の撒廢、引上、新設を爲した次第で、今後の行き方としては中央よりの一方的な指導命令を避けて、地方當局をして地方の實情に即して徴税の實體を把握せしめて、不當なる賦課の行はれざるやうに仕向けたい、個人の所得は國税の徴收に當り相當はつきりして居るから、正確なる税引所得表を作成し、一割を超えて賦課することなきやうにしたいとの御答辯でありました、更に次の質問としましては、地方分與税中特別配付税の與へらるべき特別の事情とは如何なるものを指すか、又與へらるべき金額で間に合ふと考へるかと質問せるに對し、内務當局よりの答辯は、其の事情は詳細に調査して決定するが、大體に於て災害の復興の爲に負債が多額に上つた場合、人口増加が顯著なる場合、人口密度が稀薄なる場合、國民學校の兒童數が多い場合、獨立税が少額なる場合、其の他特別な事情がある場合に交付することになる、其の金額は凡そ二分の一を補給し、殘りは經費の節約に依り、自前とせしめるとのことでありました、尚他にも砂糖消費税、織物消費税、酒税、物品税等に關しても種種熱心なる質疑應答が取交はされまして、討論に入りましたが、發言なく委員會は全會一致原案通り可決すべきものと議決致しました、以上を以ちまして、御報告を終ります発言のURL:https://teikokugikai-i.ndl.go.jp/simple/detail?minId=009003242X02419460827&spkNum=51
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052・徳川家正
○議長(公爵徳川家正君) 別に御發言もなければ三案の採決を致します、三案の第二讀會を開くことに御異議ございませぬか
〔「異議なし」と呼ふ者あり〕発言のURL:https://teikokugikai-i.ndl.go.jp/simple/detail?minId=009003242X02419460827&spkNum=52
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053・徳川家正
○議長(公爵徳川家正君) 御異議ないと認めます発言のURL:https://teikokugikai-i.ndl.go.jp/simple/detail?minId=009003242X02419460827&spkNum=53
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054・西大路吉光
○子爵西大路吉光君 直ちに各案の第二讀會を開かれむことを希望致します発言のURL:https://teikokugikai-i.ndl.go.jp/simple/detail?minId=009003242X02419460827&spkNum=54
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055・植村家治
○子爵植村家治君 贊成発言のURL:https://teikokugikai-i.ndl.go.jp/simple/detail?minId=009003242X02419460827&spkNum=55
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056・徳川家正
○議長(公爵徳川家正君) 西大路子爵の動議に御異議ございませぬか
〔「異議なし」と呼ふ者あり〕発言のURL:https://teikokugikai-i.ndl.go.jp/simple/detail?minId=009003242X02419460827&spkNum=56
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057・徳川家正
○議長(公爵徳川家正君) 御異議ないと認めます
――――◇―――――発言のURL:https://teikokugikai-i.ndl.go.jp/simple/detail?minId=009003242X02419460827&spkNum=57
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058・徳川家正
○議長(公爵徳川家正君) 三案の第二讀會を開きます、御異議がなければ全部を問題に供します、三案全部委員長の報告通りで御異議ございませぬか
〔「異議なし」と呼ふ者あり〕発言のURL:https://teikokugikai-i.ndl.go.jp/simple/detail?minId=009003242X02419460827&spkNum=58
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059・徳川家正
○議長(公爵徳川家正君) 御異議ないと認めます発言のURL:https://teikokugikai-i.ndl.go.jp/simple/detail?minId=009003242X02419460827&spkNum=59
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060・西大路吉光
○子爵西大路吉光君 直ちに各案の第三讀會を開かれむことを希望致します発言のURL:https://teikokugikai-i.ndl.go.jp/simple/detail?minId=009003242X02419460827&spkNum=60
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061・植村家治
○子爵植村家治君 贊成発言のURL:https://teikokugikai-i.ndl.go.jp/simple/detail?minId=009003242X02419460827&spkNum=61
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062・徳川家正
○議長(公爵徳川家正君) 西大路子爵の動議に御異議ございませぬか
〔「異議なし」と呼ふ者あり〕発言のURL:https://teikokugikai-i.ndl.go.jp/simple/detail?minId=009003242X02419460827&spkNum=62
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063・徳川家正
○議長(公爵徳川家正君) 御異議ないと認めます
――――◇―――――発言のURL:https://teikokugikai-i.ndl.go.jp/simple/detail?minId=009003242X02419460827&spkNum=63
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064・徳川家正
○議長(公爵徳川家正君) 三案の第三讀會を開きます、三案全部、第二讀會の決議通りで御異議ございませぬか
〔「異議なし」と呼ふ者あり〕発言のURL:https://teikokugikai-i.ndl.go.jp/simple/detail?minId=009003242X02419460827&spkNum=64
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065・徳川家正
○議長(公爵徳川家正君) 御異議ないと認めます発言のURL:https://teikokugikai-i.ndl.go.jp/simple/detail?minId=009003242X02419460827&spkNum=65
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066・徳川家正
○議長(公爵徳川家正君) 明日は午前十時より開會致し、帝國憲法改正案の審議を繼續致します、議事日程は彙報を以て御通知に及びます、本日は是にて散會致します
午後五時十七分散會発言のURL:https://teikokugikai-i.ndl.go.jp/simple/detail?minId=009003242X02419460827&spkNum=66
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